ブルース&ソウル・レコーズ

哀悼オーティス・ラッシュ 1935-2018

 オーティス・ラッシュが久しぶりに公に姿を現した2016年のシカゴ・ブルース・フェスティヴァル。「スペシャル・トリビュート・トゥ・オーティス・ラッシュ」と題されたそのステージは、オーティスに感謝の気持ちを届けたいという人たちによって盛大に行われた。本誌131号で菊田俊介氏がその様子をリポートしてくれている。そこで氏は「音楽的なカリスマに加えて、親分肌の優しさを持った人だった」とオーティスを評している。おそらくオーティスと直に接する機会を持った人は皆、そう感じているのではないだろうか。

 1998年、本誌編集部に入って間もない私は、ミスター・ラッシュに取材で直接会う機会を得て、ガチガチに緊張した。学生時代にコブラ録音やチェスの“So Many Roads”をブルブル震えながら聴いたあのオーティス・ラッシュが目の前にいる。マサキ夫人の心遣いで食事を共にする機会をいただいたが、緊張のあまり食事どころではない。そんな私を見てミスター・ラッシュは「具合でも悪いのかい」と気遣ってくれた。夫人が「あなたを前にして緊張しているのよ」と伝えると、「緊張することなんてないよ」とやさしい笑顔で和ませてくれた。それでも私の緊張は収まらなかったのだが……。

 また別の機会には楽屋に通され、これからステージで弾くギターを手に取らせてくれた。オーティスに弦の張り方を教わったのよと言いながらマサキ夫人が手渡す大事な愛器に私はおそるおそる触れた。またまた大緊張の私の手汗がネックに付いていなかったか、今も気になっている。そのときもミスター・ラッシュはにこやかに眺めていた。

 「孤高の天才」。こう呼ばれるブルースマンはそうはいない。ブルース・ファンは避けて通れない50年代コブラ録音を筆頭に、オーティス・ラッシュが残したブルースは、近寄りがたいほどの緊張感で聴く者の心を大きく揺さぶる。一方で本来の力が発揮されていない作品もあった。それゆえに「天才」という便利な言葉で不安定さが語られてきた感もある。なぜあのコブラ録音のようにいかないのか。オーティスに問題があるのではないか。ファンの大きな期待は、ときに厳しい評にもなった。1986年に行われたブレイク・ダウンとの日本公演でも、日によって好不調の波の大きさが現れたと聞く。しかし乗っているときのオーティスは誰も寄せ付けない凄さがあった。ブレイク・ダウンのメンバーとしてバックを付けた近藤房之助はその公演の日々を当時『Black Music Review(No.109)』に綴った(同公演のライヴ盤『ブルース・インタラクション~ライヴ・イン・ジャパン1986 with ブレイク・ダウン』P-VINE PCD-20197 に再録)。ステージの様子だけでなく、オーティスがシカゴで世話になった先輩たちを敬い、若い衆を気遣う「親分肌」を見せたこと、苦しかった過去を抱え込んでいたことなど、オーティス・ラッシュその人の有り様が伝わる名文だった。ステージ上でオーティスの背中を見ながら、その演奏の素晴らしさに感動し涙したとも記している。

 オーティス・ラッシュは「不運の人」ともいわれる。マディ・ウォーターズらに続くシカゴ・ブルースの新しい世代として、1956年にレコード・デビュー。デビュー・シングル“I Can't Quit You Baby”がR&Bチャート6位に上がる幸先の良いスタートを切ったものの、所属レーベル、コブラ・レコードは1959年には消滅してしまった。1960年にはチェス・レコードから“So Many Roads”というモダン・シカゴ・ブルース究極の一曲となる傑作を放つも、ヒットには恵まれなかった。1962年にはデューク・レコードと契約したが、シングル1枚だけが発売され「飼い殺し」状態に陥った。

 その後、白人の学生たちを中心としたブルース再評価の動きに乗り、1965年にはヴァンガード・レコードに録音、翌66年にはアメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァルのツアーに参加し初渡欧。エリック・クラプトンやピーター・グリーンら、若いギタリストたちに大きな刺激を与えた。69年にはコティリオン・レコードから初アルバム『Mourning In The Morning』をマイク・ブルームフィールドらのプロデュースで発表。1971年には大手キャピトル・レコードに録音を行ない、そのキャリアに追い風が吹いたかに見えたが、発売は見送られてしまった。70年代に入り欧米でのブルース・ブームが熱を冷まし始めていたことも背景にあったのだろうが、自身も出来に満足していたアルバムがお蔵入りしたことで、オーティスは落胆した。この録音は76年にPヴァインから『ライト・プレイス、ロング・タイム』のタイトルで発表され(アメリカではBullfrogから発売)、その質の高さからオーティスの代表作のひとつに挙げられている。これが71年に発売されていたら、オーティスのキャリアもまた別のものになっていたかもしれない。

 70年代前半のオーティスは当時のインタヴューを読む限り、音楽活動に対し精神的に疲れていたように思われる。黒人街のクラブで頻繁におきる暴力沙汰にも嫌気がさしていたという(1973年のインタヴューより。“Sounds So Good To Me - The Bluesman’s Story” Barry Lee Pearson, University of Pennsylvania Press, 1983)。1974年にはフランスのブラック&ブルーから、75年にはシカゴのデルマークからアルバムを出したが、スタジオでの即席セッションでもあり、本領発揮には至らなかった。75年には初来日を果たすも、期待が大きすぎたこともあったのか、厳しい目が向けられた。しかし、2005年になってCD化された1976年のライヴ音源『オール・ユア・ラヴ~激情ライヴ! 1976』(P-VINE PCD-23722)を聴いてもわかるように、この時期にも好調時のオーティス・ラッシュは手のつけられない輝きを放っていた。

 70年代後半にも録音を残したが、80年代に入るとほとんど活動を止めてしまった。再び本格的に動き出したのは80年代も後半に入ってからだ。1985年のサンフランシスコ・ブルース・フェスティヴァルへの出演、先に触れた日本公演、エリック・クラプトン、ルーサー・アリスンがゲスト参加した1986年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルは、いずれもライヴ・アルバムとなったように、オーティス復活を告げるものだった。

 1994年には17年ぶりのスタジオ・アルバム『Ain’t Enough Comin’ In』(This Way Up / Mercuryを発表。グラミー賞「ベスト・トラディショナル・ブルース・アルバム」にノミネートされた。98年にはウィリー・ミッチェルとの共同プロデュース作『Any Place I’m Going』(House Of Blues)で同賞を受賞。苦難の道を歩いてきたオーティスの晴れ舞台となった。

 90年代以降は何度も日本を訪れ、素晴らしいステージを何度も見せてくれたオーティス。2004年に脳梗塞を患い、同年のジャパン・ブルース・カーニヴァルにはギタリストのカルロス・ジョンスンを伴って、不屈の闘志で来日公演をやり遂げた。以降、活動は休止し、家族とともに安らかな晩年を過ごしていた。そして2018年9月29日、オーティス・ラッシュは永遠の眠りについた。1935年4月29日、ミシシッピ生まれ、享年83であった。

 安定したキャリアで世界的なスターになったB.B.キング、R&Bシーンで一時代を築きトップに君臨したボビー・ブランド。オーティスは彼らのようになる実力を持ちながら、そうはなれなかった。けれどもこの二人以上に日本で愛されていると感じることがある。身震いするブルースを歌い、左利きで独創的なギターを弾いたオーティス。傷を負った優しき心の持ち主オーティス。汗を流しながらシャウトする姿、そして柔和な笑顔。人の生を映し出すブルースという音楽を愛した男を、我々はずっと語り続けるだろう。

※ブルース&ソウル・レコーズ No.145(2018年12月25日発売)ではオーティス・ラッシュ追悼特集を予定しています。

【関連作品】

オーティス・ラッシュ/アイ・キャント・クィット・ユー・ベイビー~ザ・コンプリート・コブラ・セッションズ 1956-58(P-VINE PCD-28034/5)


オーティス・ラッシュ/ライト・プレイス、ロング・タイム(P-VINE PCD-93234)


オーティス・ラッシュ/オール・ユア・ラヴ~激情ライヴ! 1976(P-VINE PCD-23722)


オーティス・ラッシュ/ブルース・インタラクション~ライヴ・イン・ジャパン1986 with ブレイク・ダウン(P-VINE PCD-20197)