ブルース&ソウル・レコーズ No.173では2023年5月に亡くなったティナ・ターナーの追悼特集を組んでいます。彼女の名前が世界的に知られることになったアイク&ティナ・ターナー期から、ロック/ポップ・スターとして時代のアイコンとなったソロ期まで、重要なトピックを取り上げながら彼女のキャリアを追っています。
ここではティナのキャリアの転換点となった、重要曲を10曲紹介しています。本誌特集と合わせてお楽しみください。
ブルース&ソウル・レコーズ No.173 「追悼特集 ティナ・ターナー 人々に力を与えた不屈のロックン・ソウル・シンガー」の詳細はこちらから
1. IKE & TINA TURNER: A Fool In Love
1960年
HOT 100[27位]/R&Bチャート[2位]
収録アルバム『The Soul Of Ike & Tina Turner』
当時の夫アイクとのコンビ、アイク&ティナ・ターナーのデビュー・シングル〈ア・フール・イン・ラヴ〉は、1960年夏にチャートを上がりました。アイク率いるバンドのお抱えシンガーの一人に過ぎなかったティナは、このヒットによりたちまち主役へと躍り出ます。
この曲は偶然が生んだ賜物でした。当初男性シンガーが吹込む予定でしたが、録音当日にそのシンガーは現れず、代わりにティナが吹込むことになったのです。その録音を聞いた地元のディスク・ジョッキーやレコード会社のオーナーが気に入り、正式にレコード化されたと伝えられています。
「ティナ・ターナー」というステージ・ネームと「セクシー」で「力強い」女性像を与えたのはアイク・ターナー。この曲で吠えるようにシャウトするティナはそのイメージをまとい、キャリアを築いていきます。
2. IKE & TINA TURNER: River Deep - Mountain High
1966年
HOT 100[88位]/R&Bチャート[記録なし]
収録アルバム『River Deep - Mountain High』
1960年代前半に「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる独自のサウンド・プロダクションで、クリスタルズ、ロネッツ、ライチャス・ブラザーズなどのヒットを手がけた鬼才プロデューサー、フィル・スペクター。ティナの歌声とパフォーマンスに魅了された彼は、ティナのプロデュースを強く望み、1966年にそれは実現しました。
当代の人気プロデューサーが録音にあたり出した条件は、アイク抜きで録音すること。〈リヴァー・ディープ、マウンテン・ハイ〉はアイク&ティナ・ターナー名義で発売されましたが、事実上、ティナのソロ作品でした。
この曲は全米でのヒットは逃したけれど、ティナにとって大きな転換点となりました。アイクが手掛ける曲とは異なるメロディや曲調に挑んだことで、シンガーとしての自分の可能性が広がったと、ティナは後年語っています。
3. IKE & TINA TURNER: Bold Soul Sister
1969年
HOT 100[59位]/R&Bチャート[22位]
収録アルバム『The Hunter』
1966年に渡英しローリング・ストーンズのツアーに参加したことで、国内外の白人の若者がブルースやR&Bに高い関心を抱いていることを実感したアイク・ターナーは、その潮流に乗った活動に重心を移していきます。
1968年に設立された新興レーベル、ブルー・サムと契約したアイク&ティナは主にブルースのカヴァーを収録したアルバムを制作。その1枚『ザ・ハンター』に収められたこの〈ボールド・ソウル・シスター〉は当時破竹の勢いで歴史的名曲を生み出していたスライ&ザ・ファミリー・ストーンのヒット〈シング・ア・シンプル・ソング〉のギター・リフを流用し、ファンキーなティナが堪能できる一曲です。スライのように白人の若者にも受け入れられるサウンドを彼らが目指していたことも伝わってきます。ギターでフィーチャーされているのは、テキサスのブルース・ギタリスト、アルバート・コリンズ。彼の切れ味抜群のプレイにも注目しましょう。
4. IKE & TINA TURNER: Proud Mary
1971年
HOT 100[4位]/R&Bチャート[5位]
収録アルバム『Workin' Together』
ティナが生涯に渡って歌い続けた〈プラウド・メアリー〉は、彼女の人生そのものといえる代名詞的一曲です。ティナはステージからの引退を決めたときに、「〈プラウド・メアリー〉とお別れするときが来た」と表現していることからも、この曲が彼女にとって特別な一曲であったことがわかります。ビヨンセがティナとの共演で選んだのもこの曲でした。
アイクとティナはビートルズやローリング・ストーンズらの人気曲をカヴァーし独自の色に染め上げて人気を博しましたが、この曲も原曲はC.C.R.ことクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのヒット。それを大胆にリアレンジし、ゆっくりとしたテンポに乗ったモノローグから始め、後半にコーラス隊のアイケッツとともに爆発する構成はステージ映え抜群でした。
ミシシッピ川を航行する蒸気船(外輪船)「プラウド・メアリー号」に重ねられるのは、苦難の中でも力強く進む人の姿。人々を鼓舞する人生の応援歌であり、ティナの生き様を映し出した一曲です。
5. IKE & TINA TURNER: Nutbush City Limits
1973年
HOT 100[22位]/R&Bチャート[11位]
収録アルバム『Nutbush City Limits』
アイク&ティナ時代のティナは、アイクの支配下に置かれていたと言われていますが、そのような状況下でもティナは自作曲をいくつか作り、そのクリエイティヴィティを発揮していました。彼女の生まれ故郷を歌ったこの〈ナットブッシュ・シティ・リミッツ〉は、ギター・リフを軸にしたサウンド・プロダクションこそアイクならではのものですが、ティナ自作の代表曲といっていいものです。
アメリカ南部、テネシー州の小さな町、ナットブッシュの日常とそこに生きる人々の生活を簡潔な言葉で見事に描き出したこの曲にティナはどんな思いを込めたのでしょう。73年の発表当時、ティナは「自分はまだなにも成し遂げていない」と感じていたと述べています。そんな時に、故郷を歌う心情とはいかなるものでしたのでしょうか。望郷とは明らかに違うでしょう。あの田舎町から出てきて私は何をしているのか、という焦燥のような気持ちがあったのではないでしょうか。
ティナはソロで成功後、映画『ティナ』のサウンドトラック盤でこの曲を再録しました。そこではまた別の思いが込められていたことでしょう。
6. TINA TURNER: Let's Stay Together
1984年
HOT 100[26位]/R&Bチャート[3位]
収録アルバム『Private Dancer』
1976年にアイクと決別したティナは、ラスベガスでのショーなど、ライヴ活動を軸にソロ活動を続けていました。ステージの評判はよく、健在であることを示していましたが、シングル・ヒットはなく、「過去の人」になりかけていたのも事実です。
ティナに再び光を当てたのは英国のミュージシャンでした。1981年にB.E.F.(ブリティッシュ・エレクトリック・ファウンデーション)が彼女をフィーチャーしたシングル〈ボール・オブ・コンフュージョン〉(テンプテーションズの1970年の大ヒット曲)を発表すると、ヨーロッパで評判を呼びます。若い世代からもティナへの注目が高まったことで、大手キャピトル・レコードとの契約へと結びつきました。
B.E.F.のメンバーが手がけた再出発曲〈レッツ・ステイ・トゥゲザー〉はアル・グリーンの71年の大ヒットのカヴァー。過去の名曲を歌うコンセプトは〈ボール・オブ〜〉と同じですが、80年代初頭のシンセポップの色合いを適度にまとい、アップデートされたプロダクションは「懐メロ」的な後ろ向きな印象を全く感じさせません。なによりティナの歌の臨場感が時代を超えています。
7. TINA TURNER: What's Love Got To Do With It
1984年
HOT 100[1位]/R&Bチャート[2位]
収録アルバム『Private Dancer』
邦題〈愛の魔力〉で馴染んでいる人も多いことでしょう。ティナにとって初の全米ナンバーワン・ヒットであり、のちに伝記映画の副題にもなった彼女の代表曲です。
制作は英国出身のテリー・ブリテン。彼がグラハム・ライルと共同で書いたこの曲は、当初クリフ・リチャードら何人かのシンガーに提供されましたが録音されず、ようやく英国のポップ・グループ、バックス・フィズが録音したもののすぐには発売されませんでした。ティナもデモ録音を聞いた段階では自分には合わないと感じており、作者のテリーと顔を合わせ、意見を交換し曲に磨きをかけると、しだいに乗り気になり、完成に至ったといいます。
ステージ狭しと激しく動き回り、ダイナミックにシャウトするロックンローラーとしてのイメージから距離を置き、ミディアム・テンポに乗ってじっくりと噛み締めるように歌い上げる〈愛の魔力〉は、ティナの成熟したもうひとつの姿を強く印象付けました。
8. TINA TURNER: We Don't Need Another Hero
1985年
HOT 100[2位]/R&Bチャート[3位]
収録アルバム『Simply The Best』(他、映画のサントラや各種ベスト盤に収録)
〈愛の魔力〉とアルバム『プライヴェート・ダンサー』の大ヒット、ロック・スターたちとの共演や世界的なコンサート・イベントへの参加など、多忙を極めるなかでティナは映画『マッドマックス/サンダードーム』に出演。主役を喰うほどの強烈な印象を残しました。映画の主題歌であるこの曲(邦題〈孤独のヒーロー〉)は、〈愛の魔力〉と同じ作曲者コンビが書きました。
核戦争後の世界を描いた同映画のテーマ・ソングであり、歌詞もその設定に沿ったものですが、争いや苦しみの絶えない世の中への痛烈な批判が込められた内容は普遍的でもあります。冷戦下にあった80年代当時は核戦争の脅威が歌の中で描かれることも多く、この曲も核についての具体的な描写こそありませんが、そうした時代の空気を感じさせます。
子供たちのコーラスとともに、絶望の中でも希望の光を照らそうとするティナの力強い歌声は圧倒的です。
9. TINA TURNER: The Best
1989年
HOT 100[15位]/R&Bチャート[記録なし]
収録アルバム『Foreign Affair』
アルバム『フォーリン・アフェア』からカットされた〈ザ・ベスト〉は2023年現在、ティナの公式YouTubeチャンネルで再生数1.9億回を数えるほどの人気曲です。ティナがソロ活動後に拠点としたヨーロッパでは多くの国でトップ10内に入るヒットを記録していますが、チャート成績以上に多くのファンの心に響き続けている曲といえるでしょう。
本当に愛する人を見つけた喜びを歌ったこの曲を最初に録音したのはボニー・タイラーでした。彼女の1988年のアルバム『ハイド・ユア・ハート(Hide Your Heart)』に収録され、シングル・カットもされています。ティナは同曲をたいへん気に入りましたが、作者のホリー・ナイトとマイク・チャップマンにブリッジを加えてほしいとリクエスト。発表済みの曲を改変することは異例のことでしたが、作者のナイトはティナの要望に応えています。ティナのアイディアによって曲はよりドラマティックに仕上がり、彼女が残した曲の中でも最も愛される一曲になったのです。
10. TINA TURNER: GoldenEye
1995年
HOT 100[71位]/R&Bチャート[89位]
収録アルバム『Wildest Dreams』
映画『007/ゴールデンアイ』の主題歌〈ゴールデンアイ〉を歌ってほしいと、作者であるU2のボノとジ・エッジの二人に言われたときはワクワクしたとティナは自伝『My Love Story』で述べています。ただ、彼らが用意したデモは断片的な未完成品で、メロディやキーも不確か、どう歌ったらいいのか戸惑いました。曲として完成されていない状態から自分なりの解答を見つけ、映画にふさわしい曲に作り上げるのはティナにとって初めての経験でした。そしてティナはそれを見事に成し遂げたのです。
〈ゴールデンアイ〉はアメリカでは大きなヒットにはなりませんでしたが、ヨーロッパ各国でヒット、英国でもトップ10に入り、ライヴでも目玉の一曲となります。
この時すでに30年以上のキャリアを誇り、自身のスタイルを確立していたティナですが、この曲との出会いがシンガーとしてのは幅をさらに広げたとティナは語っています。キャリアの後半でもクリエイティヴに前進を続けていたティナを象徴する一曲といえるでしょう。
ブルース&ソウル・レコーズ No.173 「追悼特集 ティナ・ターナー 人々に力を与えた不屈のロックン・ソウル・シンガー」の詳細はこちらから