2022.8.29

【イントロダクション公開】 No.167 特集「60年代ソウルの基礎知識」

ブルース&ソウル・レコーズ 第167号

ブルース&ソウル・レコーズ No.167では60年代ソウルを大特集しています。代表的アーティストの紹介と重要アルバム・ガイドをメインに、各種コラム、レーベル・ガイド、関連地図や年表も掲載した60年代ソウルの入門編として楽しめる内容です。

特集 60年代ソウルの基礎知識

特集の冒頭に掲載したイントロダクションとなる一文を少しアレンジしてここにお届けします。


60年代ソウルのポジティヴなエナジー

60年代ソウルにはポジティヴなエナジーを常に感じてきました。気持ちをたかぶらせるホーンの調べ、ぐいぐいと前に進むビート、そして偽りのないまっすぐな歌。これは私が抱くイメージですから、異なる印象を持つ人もいるでしょうし、こうしたイメージと重ならない曲もたくさんあります。けれども、オーティス・レディング、アリサ・フランクリン、サム・クック、ジェイムズ・ブラウン、ウィルスン・ピケット、テンプテーションズ、インプレッションズなどなど、60年代を代表するシンガーや曲を思い浮かべるだけで、なにか力を与えられるような感覚を得られるのです。曲に込められたメッセージには、現代社会を生きる我々にも響く普遍的なものが多くあります。これが70年代になると、また異なるイメージが現れます。

本特集では60年代ならではの空気をいっぱいに吸ったソウルを紹介したいと考えました。「60年代ソウルの基礎知識」と大風呂敷を広げてしまいましたが、R&B(リズム&ブルース)の一形態であるソウル・ミュージックが誕生し、世界へと広まっていった60年代に大きな役割を果たしたアーティストを取り上げ、ソウルを語る際に頻出するキーワードごとに重要アルバムを紹介するというのが主な内容です。

ここではソウルの誕生と発展の背景、60年代の音楽シーンについて簡単にみてみましょう。

逆輸入が火をつけた?

60年代の10年間、1960年と1969年では随分と音楽シーンの様相が変わりました。たとえば60年代前半のR&Bシーンでは、ポップス市場に食い込む(クロスオーヴァーしてヒットする)ためには、メインストリーム(ポップ・チャート)向けのアレンジやビートなどが求められました。60年代前半のニューヨークで制作された作品にその傾向が強くみられます。それらは「アップタウン・ソウル」や「ポップ・ソウル」と呼ばれました。そこで聞かれる音の傾向を取り入れながら、独自のサウンドで制約を突破し、成功したのがモータウンでした。そして60年代も後半になると、R&Bの最先端をいく曲がポップ・チャートでも同様に好成績を収めるようになりました。リスナーの変化、とくに白人の若者の嗜好の変化が大きかったといえるでしょう。

その要因はいくつか考えられます。まずひとつに、50年代から高まっていた白人の若者の間でのR&Bの流行が土台にあります。それはエルヴィス・プレスリー現象の背景となり、ロックンロールの大流行を生みました。R&Bは主に経営規模の小さな独立レーベルによって生み出されていましたが、大手レコード会社(メジャー・レーベル)もその流れを見過ごせないほどに激しくなり、人気R&Bシンガーと契約するようになります。サム・クックとレイ・チャールズがメジャーと契約したのは1960年でした。R&Bが広く市民権を得始めたのです。

そして60年代中盤に海外から大きな波が訪れます。ビートルズやローリング・ストーンズらの全米進出と、その人気の爆発です。続けて多くの英国出身バンドがアメリカでブレイクし、《ブリティッシュ・インヴェイジョン》と呼ばれました。それによって、彼らが手本としたブルース/R&B/ソウルへの関心がアメリカ本国の若者の間でも高まったのです。それと関連して、モータウンやアトランティック、スタックスといったR&B/ソウル・レーベルの人気シンガーが渡英・渡欧し、当地で大きな人気を得て、本国アメリカに逆輸入のような形で紹介されました。このように海外での人気の高まりが、アメリカ本国での注目をさらに高めたことは見逃せません。オーティス・レディングが英メロディー・メイカー誌の年間最優秀男性シンガー部門で、それまで10年間1位だったエルヴィス・プレスリーをおさえて、初めて1位になったのが1966年。それまでオーティスは、本国アメリカではポップ・チャートのトップ20に入るヒットを1曲も放っていませんでした。翌年オーティスは米カリフォルニア州で行われたモンタレー・ポップ・フェスティヴァルに出演し大絶賛されています。

《ブリティッシュ・インヴェイジョン》を含む、ロック・シーンの拡大はR&B/ソウルにも影響を与えました。60年代後半のフラワー・ムーヴメント〜ヒッピー・カルチャーの登場は、とりわけ西海岸のグループに大きな影響を与えています。スライ&ザ・ファミリー・ストーンはその影響下から登場したスーパー・グループです。

このように60年代の10年間に、R&B/ソウルを取り巻く環境は大きく変化していきました。R&B/ソウルが主流文化・社会に食い込み、時代を映すひとつのムーヴメントとなっていったのです。1968年、アリサ・フランクリンが米タイム誌の表紙を飾ってソウルのアイコンとして全米に知られたことは、実に象徴的な出来事でした。

ソウルのゆりかご──ゴスペル

そもそも「ソウル・ミュージック」はどう定義されてきたのでしょうか。「R&B」というジャンルの中から生まれた「ソウル」。ソウルを特徴づけたものの筆頭に挙げられるのが「ゴスペル」です。1930年代から50年代にかけて広く普及したゴスペルの音楽的特徴(コード進行、ハーモニー、歌唱法、曲の構成等)が、ポピュラー(世俗)音楽であるR&Bに流れ込み、「ソウル」と呼ばれるある特徴を持ったスタイルが生まれた、というわけです(R&B、ジャズとゴスペルは相互作用がみられ、ゴスペルからR&Bへの一方通行ではなかったことも記しておきます)。

ゴスペルには様々なスタイルがあります。ソロで歌われるもの、ドゥ・ワップとも関連する4声ハーモニーのゴスペル・カルテット、女性を中心としたゴスペル・グループ、合唱隊によるクワイアなどです。そのいずれもソウルと繋がっています。1940〜50年代に多くのレコードを発表した人気ゴスペル・シンガーたちは、ソウル・シンガーの手本となりました。クララ・ウォード、ジュリアス・チークス、クロード・ジーターといった名ゴスペル・シンガーの歌声を聴けば、有名ソウル・シンガーの姿が重なるでしょう。ソウル・シンガーのほとんどが幼少時からゴスペルを歌い、中にはプロのゴスペル・シンガーとして活躍後にR&Bに転向した人もいます。

ソウルの多くは男女の関係を歌っています。愛を告げるもの、別れを嘆くもの、喜びに満ちたもの、悲しみに沈んだもの。そうした男女の歌のなかに、聖書や教会でお馴染みの言葉が紛れていることがよくあります。また、聖書の教えに基づいた共同や互助の精神が、歌のなかに現れることもしばしばです。

このようにソウルを語る上でゴスペルは避けて通れないものと言っていいでしょう。では、なぜこの時期にR&Bにゴスペルの要素が取り入れられたかを考えてみます。前述のように、ゴスペルを聴いて育った世代がR&Bシンガーやミュージシャンとなったことが、ひとつ。彼らのゴスペル体験がその音楽性に如実に現れたということです。ゴスペルは教会のネットワークを通じ、全国に広まっていたことから、ソウルも同時多発的に全米各地で花開きます。ニューヨーク、シカゴ、デトロイト、メンフィス、ロサンジェルスなど、影響力あるレコード会社が集まった大都市を中心に、各地でソウルが芽吹きました。

二つ目は、50年代半ばから急速に高まった公民権運動で歌われたフリーダムソングの存在。人々は運動のための集会や行進の際にフリーダムソングと呼ばれた古い黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアルズ)やゴスペル・ソングを歌い、連帯を強めました。60年代は公民権運動に一定の成果が現れた時代であったと同時に、各地で都市暴動が起こるなど、黒人社会が大きく揺れた時代でした。人々が困難を共に乗り越えるべく連帯意識を高めるために歌ったフリーダムソング(ゴスペル)と同じような役割が、同時代のR&Bに求められ、それがソウル誕生の背景となった、そう解釈する人がいます。カーティス・メイフィールド率いるインプレッションズの“People Get Ready”など、公民権運動なくしては登場しなかったであろうソウルの名曲が多くあります。一方、リトル・ミルトンの“We’re Gonna Make It”のように、ともに手を取り合っていこうと男女関係を歌ったソウルが、人々の連帯を示すものと解釈されることもありました。この時期に作り手が何を意識し、聴き手(受け手)が何を求めていたかを考えると、R&Bがゴスペルを取り込んでいった背景が見えてくるでしょう。

人種混成環境で熟成

「ソウル」という言葉が黒人の特徴を表す言葉として使われ出したのは1950年代と言われています。それはやがて黒人であることを強く肯定する言葉として普及していきます。1966年に若き黒人活動家ストークリー・カーマイケルによって提唱された「ブラック・パワー」のスローガンは、たちまち黒人の若者の間に広まりました。それは白人が支配する社会に対し、黒人にも権力を求める運動でした。その時期と重なるように「ソウル」という言葉が新しい意味を含みながら広まっていきます。「ソウル」は黒人であることのプライドを示す言葉となり、それが音楽にも用いられていきます。タイトルに「ソウル」と付く曲が増えたのもこの時期でした。「ソウル」は時代の気運が込められた言葉でした。1967年秋にかけて大ヒットしたサム&デイヴの“Soul Man”は、そんな時代を写した一曲といえるでしょう。その動きは60年代末には急進的な人々の扇動もあり、最高潮に達します。映画『サマー・オブ・ソウル』はそんな時代を記録していました。

この時代の黒人音楽を語るときには、どうしても黒人社会の動向を関連づけたくなりますが、ソウル・ミュージックを担ったのは黒人だけではありませんでした。主役たるシンガーは基本的に黒人でしたが、プロデューサーやソングライター、セッション・ミュージシャンなど制作陣には人種を問わず、たくさんの優れた人材が関与しました。ニューヨークでは作曲家として駆け出しのキャロル・キング=ジェリー・ゴフィンや、夭逝したプロデューサー、バート・バーンズらが同地のソウルの発展に寄与しました。南部に目を移すと、スタックスのハウス・バンド、ブッカー・T&MGズのスティーヴ・クロッパーとドナルド・ダック・ダン、フェイム・スタジオのマスル・ショールズ・リズム・セクション、ダン・ペン=スプーナー・オールダムのソングライター・コンビ、フェイム・スタジオのリック・ホールやアメリカン・サウンド・スタジオのチップス・モーマンといったプロデューサーらが、同地のサウンドに大きく貢献しました。彼らは皆白人です。人種を強調するのは慎重にならないといけませんが、このような人種混成環境の中でソウルが熟成していったことは覚えておきたい事実です。

時代を超えたポジティヴなエナジーを放つ60年代ソウルをぜひ聞いてみてください。本特集がその一助になれば幸いです。◾️

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