2022.11.29

【イントロダクション公開】 No.168 特集「シカゴ・ブルースと出会う」

ローリング・ストーンズをはじめとしたロック・バンドはもちろん、日本のブルース・ファンからも愛されてきた「シカゴ・ブルース」を大特集した本誌No.168。マディ・ウォーターズやジミー・リードらシカゴ・ブルースを代表するブルースマンとその代表作や、日本国内で独自に組まれたLPを中心に100枚以上のアルバムを紹介した「シカゴ・ブルース」の入門書・保存版として最適な1冊です。

特集 シカゴ・ブルースと出会う

特集の冒頭に掲載したイントロダクションとなる一文を少しアレンジしてここにお届けします。


シカゴ・ブルースと出会う

一口にブルースといっても様々なスタイルがありますが、なかでもブルース・ファンに取って特別な響きを持つのが「シカゴ・ブルース」といえるでしょう。

たとえばローリング・ストーンズやエリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、フリートウッド・マックら60年代に登場した英国のロック・ミュージシャンたちはブルースから多くを学びましたが、マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、リトル・ウォルター、サニー・ボーイ・ウィリアムスン(ライス・ミラー)、ジミー・リード、エルモア・ジェイムズといったシカゴ・ブルースを代表するブルースマンたちが彼らの手本であり憧れの存在でした。彼らの歌、ギター・プレイ、バンド・サウンドを研究した先に、新しいロックのサウンドが生まれたといっても過言ではありません。ロックを通してブルースに触れた音楽ファンにとって、シカゴ・ブルースは一度は耳を傾けたいルーツとして親しまれてきました。

シカゴ・ブルースの楽曲も多くカヴァーされたローリング・ストーンズによるブルース・カヴァー・アルバム『Blue & Lonesome』(2016年)

現在はこのような「ロックのルーツ」としてシカゴ・ブルースに出会うことは少なくなってきたかもしれません。新しい音楽が次々と生まれ、膨大な音源が日々ウェブ上にアップされる中で、シカゴ・ブルースがその中に埋もれてしまうのはもったいない、そんな思いからブルース&ソウル・レコーズ No.168(2022年12月号/10月25日発売)では、シカゴ・ブルースを大特集しました。題して「シカゴ・ブルースと出会う」です。

本特集ではシカゴ・ブルースの代表的ブルースマンを取り上げ、重要音源を紹介しています。これまでもシカゴ・ブルースのガイドはいろいろと行われてきましたが、今回は「日本のファンに親しまれてきたシカゴ・ブルース」という視点を加えました

日本では1970年代にブルースへの注目が高まり、シカゴ・ブルースも多くの人に聞かれました。先に挙げたマディ・ウォーターズら世界的なビッグ・ネームはもちろんのこと、脇役として燻銀の活躍を見せたギタリストやミュージシャンに対しても熱い視線が注がれ、一部のブルースマンやアルバムは日本のファンの間でとりわけ人気が高いという現象も起こりました。特集ではそうした日本でとくに評価の高いブルースマンを大きく取り上げています。またアルバム・ガイドでは主に日本盤LPを取り上げることで、日本のファンの間で親しまれてきたシカゴ・ブルースを振り返っています。

本特集を読めば、シカゴ・ブルースの基本となる重要アーティストと作品を知ることができるでしょう。

さて、ここではシカゴ・ブルースが誕生した背景や歴史など、基本的な事柄をおさらいしておきましょう。


シカゴへ大移住

マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、サニー・ボーイ・ウィリアムスン(ライス・ミラー)、ハウリン・ウルフ、ジミー・リード──いずれもシカゴ・ブルースを代表する存在である彼らに共通するのは、アメリカ南部の出身であることです。彼らは新しい生活や仕事を求めてシカゴへと赴き、同地でレコーディング・アーティストとして成功を掴みました。

「シカゴ・ブルース」とは文字通りイリノイ州の大都市シカゴで発展したブルースのことを指します。シカゴでブルースが発展した背景には、黒人人口の増加があります。1940年からの10年間でシカゴの黒人人口は30万人近く増えたといいます。南部から多くの黒人が仕事をもとめてやってきたのです。また厳しい人種差別から逃れるために南部を後にした人も多くいました。シカゴ・ブルースの歌詞には彼らの働き先である鉄鋼所や屠殺場が登場し、彼らの厳しい現実が歌われています。移住により南部出身の黒人が急激に増え、彼らの好む音楽が求められたことが、シカゴでブルースが新たな発展を遂げた要因のひとつでした。

一般にシカゴ・ブルースといえば、40年代終わりから50年代にかけて、エレキ・ギターやハーモニカ、ドラムス、ベースを用いて形成されたスタイルを指します。そこにピアノやサックスが加わることもありました。

それ以前にもシカゴでは多くの黒人ミュージシャンが活躍し、ブルースを演奏していました。ジョン・リー・サニー・ボーイ・ウィリアムスン(通称サニー・ボーイ一世)、ビッグ・ビル・ブルーンジー、タンパ・レッドといった1930〜40年代のブルースのスターたちは、南部のブルースよりも洗練されたアンサンブルで、ジャズに近い演奏をすることもありました。それらは南部の「カントリー・ブルース」に対し「シティ・ブルース」と呼ばれ、なかでもブルーバード・レーベルから発売されたブルースはその定型化されたサウンドが「ブルーバード・ビート」と呼ばれました。彼らの作品は大きな影響力をもち、次世代のミュージシャンたちも大いに参考にしていました。いわば「シカゴ・ブルースの父」といえる存在です。

彼らと後年のシカゴ・ブルースマンたちとの違いのひとつに、エレクトリック楽器の使用があります。

40年代から50年代にかけて、音楽界に起きた大きな変化のひとつに、楽器の電化がありました。楽器の音を増幅するためにアンプが使用され、エレクトリック・ギターが普及し出します。1951年にはフェンダー社がエレクトリック・ベースを発売しています。アンプを通してハーモニカを鳴らす「アンプリファイド・ハーモニカ」という奏法も生み出されました。これによってハーモニカはそれまで花形楽器だったサックスと音量の面でも人気の面でも肩を並べるようになりました。シカゴ・ブルースは電気増幅(アンプリファイド)された楽器で演奏する音楽として発展していったといっていいかもしれません。

タンパ・レッドやビッグ・ビルもエレキ・ギターを弾きましたが、それまでの演奏法と大きく変わる点はありませんでした。エレキの特性を引き出す演奏をしたのは、より下の世代でした。


シカゴ・ブルースの初期の例としてタンパ・レッドなどが収録されたコンピレーション盤『That's All Right (When the Sun Goes Down series)』(2002年)

ダウンホーム・シカゴ

シカゴ・ブルースはどこで生まれたかと問われたら、マックスウェル・ストリートと答える人は多いでしょう。シカゴのウェスト・サイドのユダヤ人地区にあったマックスウェル・ストリートはジュー・タウンと呼ばれ、フリー・マーケットが開かれる通りとして多くの人を引き寄せました。やがて南部から来た黒人がマックスウェル・ストリートに集まり出しました。そしてストリート・ミュージックとしてブルースが奏でられるようになります。多くのブルースマンがマックスウェル・ストリートで演奏したと語っています。アンプリファイド・ハーモニカによる革命的でモダンなブルースを数多く残したリトル・ウォルターもシカゴに来た当初はマックスウェル・ストリートで腕を磨いていました。

当時どのようなブルースが演奏されていたかを伝えてくれるレコードがあります。1947年の音源をまとめた『Chicago Boogie』というアルバムです(本誌特集のディスク・ガイドを参照ください[p.82に掲載])。そこに収録された、ギターとハーモニカのデュエットやギター弾き語りの演奏はまだカントリー・ブルースの臭いが強く、後のバンドによるシカゴ・ブルースとは大きく異なります。これらを聞けば、シカゴの街中で若い世代のミュージシャンによって南部のフィーリングあふれるブルースが奏でられていたことがわかります。この南部のフィーリングというのが、エレクトリック時代のシカゴ・ブルース誕生の大きなポイントとなります。いわゆる「ダウンホーム・シカゴ・ブルース」というスタイルです。

ダウンホームとは南部のことを指します。南部を思わせる土臭く生々しいブルースは、シカゴ・ブルースの大きな特徴となりました。マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ・ウィリアムスン(ライス・ミラー、通称サニー・ボーイ二世)のように南部で長く活躍してきたミュージシャンがシカゴへ出て同地のバンド・サウンドを背に歌う時、南部の色とシカゴの色が絶妙に混ざり合いました。

ダウンホーム・シカゴ・ブルースのひとつの特徴として、ギターを主体としたブギ・ビートが挙げられるでしょう。ロバート・ジョンスンが完成させたウォーキング・ベースといわれるギター・ブギ・ビートは、エルモア・ジェイムズ、エディ・テイラーらの作品によってシカゴ・ブルースの一部となりました。

ダウンホームなブルースは、急激に増えた南部出身の黒人たちに支持されましたが、もっと洗練されたアレンジによる都会風のシカゴ・ブルースも負けず劣らず評判を呼びました。その筆頭がルーズヴェルト・サイクスやメンフィス・スリムです。彼らのバンドにはサックス奏者が入ることが多く、それがアーバン・サウンドと呼ばれるものになりました。エルモア・ジェイムズのバンド、ブルームダスターズは彼らを手本としていたように思われます。


1949年から1952年、黄金期の作品を集めたチェス・レコードによるダウンホーム・ブルースのコンピレーション盤『Drop Down Mama』(本誌P78/056)

バンドの熟成と現れた新星

1950年代も半ばに差し掛かるころ、シカゴ・ブルースは新たな段階に入ります。

ギター、ハーモニカ、ドラムス、ベース、ピアノ、サックスといった編成でのアンサンブルは磨かれ、ひとつの様式美が生まれます。マディ・ウォーターズのバンドで活躍したシンガー/ギタリストのジミー・ロジャーズは、その完成に最も貢献したひとりといえるでしょう。ギター2本によるアンサンブルをバンドの中で生かす方法を究めたのです。ロバート・ロックウッド・ジュニアも、バンドにおけるギターの可能性を高めた功労者です。そのロックウッドとともに1974年《第1回ブルース・フェスティバル》に出演した、デイヴとルイスのマイヤーズ兄弟とフレッド・ビロウからなるジ・エイシズはシカゴ・バンド・サウンドを象徴するバンドとして、日本のミュージシャンのお手本となりました。

50年代も後半から60年代に入ると、さらにモダンなスタイルをもったギタリストが登場します。マディ・ウォーターズらよりも一世代若い、オーティス・ラッシュ、マジック・サム、バディ・ガイたちです。テキサス出身のフレディ・キングも当時シカゴで彼らと一緒に腕を磨いた一人でした。彼らはB.B.キングやボビー・ブランドらに影響を受け、ギターを前面に押し出したバンド・サウンドを特徴としていました。そのサウンドはブルース志向のロック・アーティストの手本となりました。彼らは主にシカゴのウェスト・サイドで活動していたことから「ウェスト・サイド派」と呼ばれることがあります。このモダンな一派の登場により、今日まで続くシカゴ・ブルースのスタイルはほぼ出揃ったといっていいでしょう。

1950年代初頭から1970年代半ばまでのシカゴ・ブルースの歴史やスタイルを網羅したP-Vineから発売された『シカゴ・ブルースの25年』(2008年)

本誌特集ではシカゴ・ブルースの黄金時代と呼ばれる1950〜60年代の作品を中心に紹介しています。ぜひこの機会にシカゴ・ブルースのマスターピースに出会ってみてください。■

※ブルース&ソウル・レコーズ No.168掲載の文に加筆しました

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