授賞式が迫る第93回アカデミー賞、その5部門にノミネートされているNetflix作品『マ・レイニーのブラックボトム』(以下『ブラックボトム』と略)。「作品賞」にこそノミネートされなかったが、マ・レイニー役のヴィオラ・デイヴィスが「主演女優賞」に、レヴィー役のチャドウィック・ボーズマンが「主演男優賞」に、さらに「美術賞」「衣装デザイン賞」「メイクアップ&ヘアスタイリング賞」にもノミネートされ、今回のアカデミー賞の目玉作品の一つとなっている。ゴールデングローブ賞をはじめ、すでに多くの映画賞にノミネートされ、いくつかで受賞を果たしており、その評価はすこぶる高い。
本誌ブルース&ソウル・レコーズ No.158(2021年4月号)では、マ・レイニーという実在した女性ブルース・シンガーの魅力をこの機会に広く知ってもらいたく、特集を組んだ。ライバルでもあった「ブルースの女帝」ことベッシー・スミスと対比しながら彼女のキャリアを追った記事では、マ・レイニーの作品の魅力や彼女がどのような時代に登場したのかを紹介している。また、彼女のレコーディングに参加したミュージシャンを取り上げた記事では、ルイ・アームストロングやフレッチャー・ヘンダースンらジャズ史の重要人物が次々と登場し、彼女が当時のトップ・シンガーであったことを伝えた。付録CDには『ブラックボトム』で登場した曲のマ・レイニーによるオリジナル録音のほか、ベッシー・スミス、メンフィス・ミニーら1920〜40年代の女性シンガーのブルースが楽しめる。
聞こえは悪いが、『ブラックボトム』の話題に便乗しての特集、というのが本音である。なにしろ「ブルースの母」と呼ばれ、20世紀初頭に大きな影響力をもった偉大なシンガーでありながら、マ・レイニーの名は熱心な音楽ファンの間で知られるにとどまっているのだから。チャドウィック・ボーズマン、ヴィオラ・デイヴィスという二人の名優が主演を務めるという、映画音痴の筆者でも心躍るキャスティング。プロデューサーにはデンゼル・ワシントン。Netflix独占配信ながら映画ファンに注目されてしかるべき作品だろう。となれば、『ブラックボトム』をきっかけに、マ・レイニー、さらにはブルースという音楽に興味を持つ人が増えてくれるのでは、と淡い期待を抱いてしまうことを許してもらいたい。
*己を肯定したブルース
『マ・レイニーのブラックボトム』は「黒人シェイクスピア」とも呼ばれた劇作家オーガスト・ウィルソン(1945−2005)の舞台劇(1982年初演)が元となる。ウィルソンについてはNetflixの『マ・レイニーのブラックボトムが映画になるまで』と『Giving Voice: 内なる声が語ること』を観ると、どのような人物であるか分かるだろう。後者はウィルソンの作品の台詞(モノローグ)を題材にしたコンペティションに、全米各地の高校生が参加する様子をとらえたドキュメンタリーで、ウィルソンが作品に何を込めたのかを教えてくれる。彼のことをさらに知りたければ評伝『オーガスト・ウィルソン アメリカの黒人シェイクスピア』(桑原文子著/白水社)を手に取るといい。
ドイツ系移民の父とアフリカン・アメリカンの母の長男として生まれたオーガスト・ウィルソンは自らを「ブラック・ナショナリスト」だといった。マルコムXをヒーローとし、60年代半ばに起きた「ブラック・パワー」思想に大いに刺激を受けた彼は、「自決(self-determination)、自尊心(self-respect)、自衛(self-defence)」の3つを「ブラック・ナショナリスト」としての信条に上げる。その3つは『ブラックボトム』でも重要なテーマとして描かれている。
アメリカで黒人として生きることの困難を幼い頃から思い知らされたウィルソンが、黒人であることを肯定する大きな原動力となったのが、二十歳のころに聞いたベッシー・スミスのブルースだった。それはストークリー・カーマイケルが「ブラック・パワー」と高らかに叫んだ前年のことで、ウィルソンはベッシーの歌声とブルースの歌詞に「黒人文化の価値」を認識したという。それ以来、ブルースは彼にとって「芸術の源泉」となった。彼の作品に登場する人物の考えや態度は、ブルースの歌詞に由来するとも語っている。
ブルースという音楽はしばしば「悲しい歌」「抑圧された者の嘆きの歌」だと、とらえられてきた。だがそれは表面的なもので、マ・レイニーのステージを体験している文芸評論家、詩人のスターリング・ブラウン(1901-1989)はこう語った。「ブルースの精神はまさにブルースとしかいいようがなく失望などではないのです。私は気持ちを高めるためにブルースを聴き、歌や詩から高揚を得ます」。そして作家ラルフ・エリスン(1914-1994)が言うように、ブルースとは「黒人が生き抜き、勇気を持ち続けたテクニックのひとつ」でもあった。オーガスト・ウィルソンが敬愛する作家ジェイムズ・ボールドウィン(1924-1987)は、「黒人であること」をブルースに教えられたと言ったが、つまりブルースを歌い、聴き、感じることが、自己を否定する社会に対抗するひとつの手段となっていた。ブルースは黒人が「恥や屈辱に立ち向かうための表現なのだ」と語ったのは、かの「ブルースの王様」B.B.キング(1925-2015)である。『マ・レイニーのブラックボトム』では南部でブルースが演奏されるシーンが登場する。マ・レイニーの自信に満ちた振る舞い、観客たちの熱狂は、自らを肯定する人々の姿を映し出しているといえるだろう。
*「ブルースの母」の信念
オーガスト・ウィルソンはマ・レイニーのマイルストーンから発売されたLP(アルバム)を聞いているときに、『ブラックボトム』の「経済的に搾取された黒人パフォーマー」という着想を得たという。それは1976年のこと。当時マイルストーンから発売されていたアルバムは以下の4枚であった。
[1]The Immortal Ma Rainey (Milestone MLP 2001) 1966年発売
[2]Blame It On The Blues (Milestone MLP 2008) 1969年発売
[3]Down In Basement (Milestone MLP 2017) 1971年発売
[4]Ma Rainey (Milestone M-47051) 1974年発売
ウィルソンはアルバム名を示してはいないが、タイトルに引用された“Ma Rainey's Black Bottom”が収録されているのは[2]と[4]。劇中(舞台)で使用された“Hear Me Talking To You”は[3]と[4]に収録されている。注目したいのは[3]だ。上記4枚のうち、このアルバムだけに収録されている“Down In The Basement”は『ブラックボトム』と強く結びつく曲で、タイトルの「地下室/地階(basement)」は舞台設定を思わせ、「インテリぶった演奏したら、叫んでやる、“ブラザー、もうたくさんだよ!”」という歌詞はレヴィーに対するマ・レイニーの態度と重なる。「ロウダウン(low down)なのがほしい」と歌うこの曲は、彼女が根ざしていた米南部のブラック・コミュニティが支持するブルースのファンキーな感覚を失ってはならないというメッセージが込められている。「地下室/地階」とは自分たちの基盤とする南部であり、常に帰ることができる場所であり、そこを離れてはいけない、安易に主流社会への「同化」という選択肢をとるべきではない、と読むこともできる。
[3]に収録された他の曲も見てみよう。“Trust No Man”は、愛していると言っていたのに次の瞬間には裏切り、金を貸したらいなくなった不誠実な男を例に、男を信用しちゃいけないと女性たちに警告する歌だが、男女の関係を人種関係に置き換えてみれば、この曲もまた『ブラックボトム』の着想の源になったと思える(ブルースで歌われる男女間のトラブルは人種間の問題をほのめかしているとする識者は多い)。“Leaving This Morning”も男に裏切られた女の歌だ。この歌の主人公はただ泣かされるだけではない。酒を飲んで、ガトリングガン(機関銃!)を買って、男を見つけ出してやる!と息巻く。この屈しない姿勢は『ブラックボトム』のマ・レイニーの姿に通じる。“Prove It On Me Blues”は同性愛を歌ったブルースの最初期の例として知られ、パートナーが去ってしまった女性の心の動きが描かれている。『ブラックボトム』で描写されたマ・レイニーと女性ダンサーとの関係がやはり思い起こされる。
作家/活動家/哲学者のアンジェラ・デイヴィス(1944-)は著書“Blues Legacies And Black Feminism”で、マ・レイニーと彼女のブルースを黒人のフェミニズム運動の原点のひとつと分析したが、これらの曲はその好例といえるだろう。人種とジェンダーを歌ったマ・レイニーのブルースは、誕生から100年が経過した今も、まったく古びていない。
*ブルース処世術
マ・レイニーという実在のシンガーを題材にした作品『ブラックボトム』を「音楽映画」だと思って観た人は、戸惑いを覚えるかもしれない。演奏シーンは多くなく、登場人物たちの会話を軸に物語は展開していく。「剽窃」「搾取」「同化」など、人種という概念を利用した社会構造の問題があぶり出される内容は、観る者の心をもやもやとさせ、かき乱すものだ。しかし、苦悩を抱えながら信念を持ってふるまうマ・レイニーの姿は、重苦しい緊張感の中でたくましく映る。これがブルースの美しさであり、強さであり、作者オーガスト・ウィルソンが生涯にわたり拠り所としたものなのだ。奴隷解放後に次々と成立したジム・クロウ法(一連の人種差別法)の下、「名を変えた奴隷制」とも言われる状況の中で生きる人々の処世術でもあったブルース。『マ・レイニーのブラックボトム』は、ブルースとは?という問いにひとつの答えをみせてくれる。
最後に、実際のマ・レイニーとはどんな人物だったのか。生前のレイニーを知る人物によれば、「威厳があり、寛大で、話しやすい人」だったという。面倒見がよく、バンド・メンバーへの金払いもよく、皆が一緒に仕事をしたがり、親しみを込めて「ブルースの母」と呼んだ。『ブラックボトム』で描かれた姿、彼女の歌に登場する人物像からは想像しにくいが、本誌のマ・レイニー特集号の巻頭に掲載した、ステージ衣装を脱ぎ、日常のスナップのような一葉の写真に映るやわらかな笑顔のレイニーの姿を見れば、うなずいてもらえるだろう。ぜひ本誌を手にとってみてほしい。■
プレイリストはコチラから!
「Ma Rainey: Down In The Basement」
[参考文献]
ブルース&ソウル・レコーズ No.158 特集 ブルースの母 マ・レイニー