2025.7.22

【SPECIAL INTERVIEW】サウス・ルイジアナ随一のギタリスト/ソングライター、サム・ブロサード・インタヴュー Part.2

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アメリカ南部ルイジアナ州ラフィエ(Lafayette)出身のミュージシャン/ギタリスト、サム・ブロサード。スティーヴ・ライリー&ザ・マムー・プレイボーイズの一員としての活動でも知られる彼は、知る人ぞ知る存在といっていいかもしれない。
昨年(2024年)バリー・ジーン・アンセレ博士との共同プロジェクトで発表したアルバム『Le Grand Silence And Other Stories』は、サウス・ルイジアナの伝統に現代性を加えたルーツ・ミュージック・アルバムとして高く評価されており、この機会にあらためて注目したいギタリストだ。

本誌No.184掲載のインタヴュー記事では、キャリアや音楽業界の問題点など、幅広く話してくれた。話はそれだけにとどまらず、ケイジャン音楽の特徴や家族のことなど興味深い話を語ってくれたので、ここにお届けしたい。(編集部)

[取材・文/はたのじろう]photo by Jiro Hatano

こちらはPart.2の記事になります。Part.1はこちらから!


ボビー・ブルックスが教えてくれたことは全てが素晴らしかった

──ホーンやストリングスの編曲もしていて、サニー・ランドレスの『Elemental Journey』(2012)には編曲者としても参加していますが、これは大学の授業で学んだのですか?

SB「大学へは短期間しか行かなかったけれど、音楽理論の授業を受けていたんだ。最近亡くなったバーク博士の実に素晴らしい授業だった。中でもお気に入りはバッハの四声ハーモニーの作曲法で、授業で習った時には理解が不十分だったけれど、ミュージシャンとして経験を積むうちに曲の随所で使われていることに気付いて納得できるようになったんだ。メロディー音にベース音が加わって、その間にハーモニーを支える2つの音が入るというクラシックの手法なんだけど、ビートルズの“Blackbird”でも使われている。それ以来私にとって人生を通して忘れられない重要な手法になっているんだ。ホーンのアレンジに関しては、様々な音楽を聴いて仕組みを研究しただけだよ。また大学では少しだけどフルートの授業も受けた。父からサキソフォン2本とフルート1本を譲り受けていたからね。音楽理論と作曲を専攻していて、学期毎に異なる楽器の実技を受講することが必須だったんだ。アップライトベースとかフルートにピアノ、ピアノは毎学期必須だったかな。だからこれらは授業で習ったんだよ」

──お父さんは何でもできる方だったようですが、ミュージシャンもされていたのでしょうか。

SB「いや、父は無線通信士だったんだ。かつて父が無線機を置いて座っていた場所が、今はスタジオになっているよ。父は長い一枚の鉄板を切り出して、穴を開けてヤスリをかけ、ラジオや無線機や発信機の外枠を作っていた。そして外に大きなアンテナを立てて、一人で世界中の人々と交信していたんだ。私はそんな環境で育ったから、少しだけど電気のことも学ぶことができたよ」

──ご両親はフランス語を話されていましたか?

SB「母は話さなかったね。また父がフランス語を話せたかどうかは良く知らない」

──ではどうやってフランス語を学んだのですか?

SB「独学で学んだんだ。ジムに行った時にヘッドフォンをつけてマシンの上を歩きながら学習したこともあった。しかし話すことはできるようになっても、聞き取るのが難しい時はあるね。だからフランス語は使えるけど得意なほどではないよ」

──ボビー・ブルックス氏からギターを習ったことはありましたか? サニーが彼の話をしていたので。

SB「私もボビーから教わったことがあるよ。私はパンデミックの前にブロー・ブリッジでギターを教えていたことがあって、愛すべき生徒たちがいた一方で、アメリカの若者たちは以前に比べて変わってしまったところもあるように感じた。ボビーが私に教えてくれた時は、彼が教えてくれたこと全てが素晴らしいものだと感じていたんだ。そして全てが素晴らしかったから、それが何であろうと気にならなかった。しかし今の若者は違うみたいで、その時の自分の好みの音楽だけを学びたいようなんだ。だから『これが君たちには必要で学ぶべきなんだよ』と伝えても彼らは気に入らなかったようだね。私の世代は、サニー・ランドレス、レイ・ムートン、そして他のミュージシャンたち、みんながボビーの話をしていて、彼の教え方が好きだった。私は彼が教えてくれたことを今でも忘れられないよ。『何か教え下さい』と頼むと、ブルースのリックを教えてくれたり、〈イパネマの娘〉を教えてくれたりもした。そこで彼は私の両親と交渉したんだ、『私はもう子供たちに教えるのは嫌だから、サムに彼らの先生をして欲しい。代わりに私はサムにタダで教えてあげるから』ってね。それで私は4、5人の子供たちに教えることになった、“メーリさんのひつじ〜”みたいな感じで(笑)。その時ボビーはというと隣の部屋で飲んでたんだ。そして時々こちらに戻って来るんだけど、酒の匂いがするんだよ(笑)。でもそれがボビーらしくて、彼は本物のジャズ・ミュージシャンだった。モーズ・アリスンを知っているかな? 数々の名曲を生み出して、ヤードバーズなど多くのグループが彼の曲を演奏したんだけど、ボビーは彼とプレイしていたんだよね。しかしそんな凄いミュージシャンがどうしてラフィエに住んでいたのか、どこからやって来たのか全く知らなかった。ボビーは何でも良く知っていて実に大きな存在だったから、私の世代はみんな彼のことをよく覚えているよ」

──サニー・ランドレスが来日した際に、デイヴ・ランスンが帯同できず、ラフィエ出身でニューオーリンズを拠点に活動するチャーリー・ウトゥンという凄腕ベース奏者が代役だったのですが、彼もボビー・ブルックス氏に習ったと話していましたよ。

SB「ええと、チャーリーのことは知らないなあ。実は今デイヴは調子が良くなくて、白血病で闘病中なんだよ。演奏はできなくはないがツアーは難しいようなんだ。今は誰がベースを担当しているのか知らなくて、最近サニーと話したけれどそれについては訊かなかったな。トニー・デイグルがエンジニアとしてサニーに同行しているとは聞いている」

──サニーとはどのよう知り合ったのでしょう?

SB「サニーと初めて会った時のことはよく覚えていないけど、当時ラフィエでギターを弾く若者はあまりいなかったから、それこそボビー・ブルックスのところじゃないかな。彼が教えていた場所でね。ボビーが初めに教えていたのは楽器屋だったんだよ。だから私たちはみんなそこにたむろしていた」

──それはバドズ(Bud’s)ですか?

SB「そう、当時はボビーが十代のギター奏者たちにとっての中心人物であり、バドズが音楽の中心地だったんだ。長年一緒に演奏しているドラマーのウェイン・ルブランの奥さんはバドの娘さんなんだよ。また私がコロラドにいた頃にアンプの修理をしてくれたのもバド・チャンドラーで、彼はみんなから慕われていた。とても良い人で、息子のフィルがこれまた良いミュージシャンだった。とても体が大きくて声もデカくてピアノが上手かったよ。しかし胃が悪くていつも薬屋へ行って胃薬を飲んでいて、それで亡くなってしまったんだ」

ケイジャン音楽のようなフォーク・ミュージシャンは基本的にハーモニーを取り入れるという概念があまりないんだ

──どんなギター奏者の音楽を聴いていましたか?

SB「本当に色々な音楽を聴いていたよ。ジョニー・ウィンターにジミ・ヘンドリクスもだけど、若い頃はジョン・レンボーンのレコードに針を置いて聴いては針を戻してということを繰り返していて、辛いけれど価値のある練習だったと思う。しかしその後はそうした練習にはあまり取り組んでいなくて、様々な音楽を同時に学ぶようになっていった。今から思うと一つの音楽にもっと集中して練習するのが良かったかもしれないと少し後悔しているよ(笑)」

──しかしフォーク、ジャズ、ブルースにカントリー音楽といった様々な音楽からサム・ブロサードという興味深いスタイルが生まれたのだと思います。

SB「そうだと良いけどね。今でも音楽の仕事の依頼の電話が鳴るしね。また若い人たちと演奏することで気持ちが満たされている面もあるかな。同年代のミュージシャンで今も同じように活動している人は多くないからね。ただ自分は純粋なケイジャン・ミュージシャンとは思われていないようで、ケイジャン音楽の仕事の話はあまり来ないよ。実際に純粋なケイジャン・ミュージシャンではないし(笑)。ケイジャン音楽のリズムを3時間も刻み続けるギグはしんど過ぎてもうできないかな、手がおかしくなるし、退屈にもなるから。ケイジャン音楽のリズム・ギターには筋力が必要で結構大変なんだよ。マムー・プレイボーイズはまだ続けていくつもりだけどね。今はスティーヴ・ライリーの息子が入ってドラムを担当していて、彼はアコーディオンもとても上手い。夏にはカナダに行く予定があるんだ。彼らのトリオでも演奏することもあるんだよ。いずれにしてもまだ仕事があるということは幸せなんだろうね」

──ナッシュヴィルからルイジアナに戻ってすぐにマムー・プレイボーイズに加わったのですか?

SB「いやいや、4、5年後だよ。戻ってきてすぐはバトン・ルージュで仕事をしていたんだ。ウォー・ベイビーズのメンバーだった人と一緒に週に2、3回出演したり、レコーディングのセッションに参加したりという仕事だった。だからバトン・ルージュによく行っていて、ラフィエでの仕事はあまりなかったんだ。そしてある時マムー・プレイボーイズがギターを求めていると聞いて、フランス公演にも帯同したんだけど、当初は正式メンバーのロディー・ロメロがいたからパートタイムでの加入だった。それが1年くらい続いて、ロディーが自身のバンドをメインに活動することになり、2000年あたりに私がマムー・プレイボーイズに正式に参加することになったんだ。それ以前にはアル・ベラルドと演奏していたんだよ。アルはエリック・ジョンスンばりにプレイできるほどギターも上手くて、とても素晴らしい経験だった。T-マムーというバンドで『Cajun And Creole Jam』というアルバムを作っていて、そこでも“Vini, Jilie”の奏法(本誌No.184のインタヴュー記事を参照)を沢山使っているよ」

──あなたが加入後のマムー・プレイボーイズは、特にハーモニーが多く入るようになって、より興味深いサウンドになったと思います。

SB「そうかもしれないけれど、当初は彼らが意図する方向性ではなかったみたいだよ。以前のマムー・プレイボーイズでは亡くなったジミー・ドメンジョーがギターを弾いていて、その時に彼はとても良いギター・プレイヤーなのにどうしてもっと弾かないのだろうと疑問に思っていたんだ。ライヴでは弾いているのにレコーディングではあまり弾いていないように聴こえたからね。そして私が加入してからは、ジミーの時よりもギターが前面に出るようになった。ケイジャン音楽のようなフォーク・ミュージシャンは基本的にハーモニーを取り入れるという概念があまりないんだよね。メロディーを楽器で弾いたり歌ったりしている時に、他の音楽で一般的にハーモニーと呼ばれているようなことを意識していないことが多いんだ。また押し引きで自然にコードが出たり、キーが変わると楽器を持ち替えて対応したりという楽器の特性が理由だと思うのだけど、アコーディオン奏者は演奏しているキーやコードを認識していないことも多い。だから私が加入してマムー・プレイボーイズはできることの幅が広がったと思う。勿論デイヴィッド・グリーリィは元々音楽について沢山の知識と経験を持っていたし、スティーヴは素晴らしいスキルを持ったプレイヤーだということもあるよ。“Bon Rêve”の特徴的な部分を覚えている?(編注:2003年の同名アルバムに収録)

──みんなで歌うところでしょうか?

SB「そう、あのパートの最後のところをフィドルでハーモニーを作るアイデアをスティーヴに伝えたら、彼は宇宙人にでも遭遇したような顔をしていたんだ。彼は演奏も歌も技術はバッチリだからそれをプレイするのは全く問題無いけれど、そういった発想が全く無かったようなんだ。だからそれまでバンドにハーモニーを加えるような指示はして来なかったのだろう。逆に私にとっては、なぜここでハーモニーを入れないのか、またなぜここで別の音にしないのか、とても奇妙に感じていたんだ。しかしそれからお互いに多くのことを学ぶことができたと思う。私自身も以前はフォーク・ミュージックを演奏していたから理解していたつもりだったけど、ケイジャン音楽のような伝統的な音楽だけを生まれてから一本でやってきたミュージシャンのことを正しく理解できていなかったんだ。だからマムー・プレイボーイズで多くのことを学ぶことができたと思う」

上手く歌えるという感覚を得られたことが今回の制作過程で一番良かった

──あなたはギターだけでなく歌も素晴らしいと思うのですが、クワイアの経験があるのですか?

SB「クワイアには入っていなかったけれど、高校の時にはコーラス・グループみたいなものを作っていたよ。またどのバンドにいた時にも常に歌ってはいた、リード・シンガーではなかったけどね。リード・シンガーの中には自我が強い人もいたから、なりたいとも思っていなかった(笑)。しかし今は歌うことを意識するようになったね。努力をすれば自分の歌も満更でもないと思い始めたんだ。最新作に“Pacanière”というウィスキーの曲があって、実はそれを歌っている時に少し心配だったんだよ。なぜならばそれなりに上手い歌い手が必要な曲だと思っていたから」

──個人的には最新作『Le Grand Silence And Other Stories』の中ではその曲が最もお気に入りですよ。

SB「本当に?」

──ええ、歌がお気に入りで特に最後の部分あたり。

SB「それはありがとう。以前は正しい音程をキープするのは難しいことだと考えていたのだけど、長年音楽の仕事を続けてきて無意識のうちにできるようになっていたことに、この曲で気づかされたんだ。録音した5テイク全てが満足できる出来栄えだったんだよ、そういった感覚は今までなかったんだけどね。だからその時に自分はどのように歌えば良いかを悟ったのかも知れないと思った。そしてこの曲は自分の求めるゴスペルに近い音楽で、自分でこうした音楽を作ることができると認識したんだ。自分でも驚いたんだけど、かつてない達成感があって嬉しかったね。更にバックコーラスの録音でも上手くできた感覚があった。自惚れるようなことは軽々しく言いたくないけど、上手く歌えるという感覚を得られたことが今回の制作過程で自分にとって一番良かったことなんだ。以前大きな仕事をして達成感が得られたことがあったけど、今回は歌うことで同じ感覚が得られてとても嬉しく思っている。だからもっとこうした仕事をしたいと思うようになったよ」

──より多くの人にあなたの歌を聴いて欲しいです。

SB「今年の夏以降に新作に取り掛かってリリースするつもりなんだが、少し違う感じで作ろうと思っているよ。自分にとって簡単なことではないのだけれど、できるだけシンプルにして少人数でもライヴで演奏できる曲も考えている。様々なアイデアを実際に演奏してみる中で、シンプルに絞り込んでいくことは難しいけれど、メロディーだけで強力な説得力を持たせる必要があるし面白くなる思うよ」

──“Pacanière”は是非再録して欲しいです。“〜Tennessee”の部分が感情的で涙が出そうになりました。

SB「ああ、それそれ! 私が目指しているアイデアはまさにそれ(笑)。このハートから聴いている人に直接届けたいんだ。だからそう言ってくれるのは本当に嬉しいよ。あのパートも大学で学んだバッハのサウンドで、この方法を変えることはないだろう。ケイジャン音楽のコードはシンプルなものが多く、サスペンションが入るくらいでディミニッシュなどは殆ど使わない。“Tits Yeux Noir”は例外的で、キーがCの場合に多くの人はCの次にEマイナーに進むのだけど、最近はEメジャーを選ぶ人も出てきた。ジョンノ・フィッシュバーグは1回目でEマイナーを2回目はEメジャーと交互に使っているよね。しかしこうした工夫は今までケイジャン音楽ではほとんど取り入れられてこなかったんだ。“Pacanière”のようなゴスペル感覚でCのコードで別のベース音を入れたりとかね。そしてケイジャン音楽の世界でこうした演奏をすると私は宇宙人になってしまう(笑)。また私はこのような3/4拍子の曲も好きなんだ」

──今後の具体的な予定はありますか?

SB「私もいつまで生きられるか分からないからね(笑)。実際のところ家に物が多いから断捨離中で、そんなことを考えなければならない年齢なんだよ(笑)。割と価値のある楽器や機材もあるけど、家族はそれを理解していないみたいだね。最近も結構高価なギターを売ったところで、録音機材も必要以上のものがあるように思う。私には50万円のマイクは要らない、5万円のもので十分だ」

──(医療保険の会社から電話が入ったようで)薬を服用されているのですか?

SB「ああ、でも大丈夫、保険に入っているから医者にも行ける。心臓に問題があって治療してもらったんだ。腕から管を入れるステント治療で手術はしなかったけど、薬は飲み続けなければならない」

──どうか健康にお気を付けて。デイヴの件が心配ですし、もっとあなたのギターや歌が聴きたいので。

SB「そうだね、私ももっと曲を作りたいと思っているよ。またこうして音楽の話ができるのも嬉しいものだね。それじゃあ、これからジムに行くよ」

──泳いだり運動したりのジムですか?
SB「そうだよ。泳いだりウェイトやヨガなど全ての運動やテニスもできる大きなジムなんだ。ケイジャン音楽の演奏は体力が要るからね(笑)」

(オンライン取材にて)

本誌No.184へもインタヴュー記事を掲載!併せてお楽しみください。

BARRY JEAN ANCELET / SAM BROUSSARD
Le Grand Silence And Other Stories

BARRY JEAN ANCELET / SAM BROUSSARD
Broken Promised Land
※アンセレ博士とのプロジェクト第一弾

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