◆ベッシーホールは満員
2024年12月8日(日)雪の積もり始めた札幌のベッシーホールで、ブルース喫茶「神経質な鶏」の開店50周年をお祝いするライヴが開催された。椅子席は早々に埋まり、後方は立ち見の人でいっぱいだ。京都、名古屋、東京と遠方から駆けつけた人の顔も見える。鶏は84年に閉店した店であるにもかかわらず、一人ひとりの心に大切な場所として記憶されていることの証だろう。
スカイドッグ・ブルース・バンドの面々がステージにあがると、50年前に「神経質な鶏」(以下、「鶏」)を立ち上げた梶原信幸さんが呼び込まれた。
梶原さんは「鶏」閉店後もいくつかのカリビアン・ミュージックを中心にお酒、食を楽しめるお店をオープン。今も「無茶法」「Miss JAMAICA」「MALAVOI」といった、グッド・ミュージックとおいしいお酒のある場所を提供し続けている。
会場となったベッシーホールのロビーにはこれまで梶原氏が携わってきたブルース・ライヴのフライヤーや写真、新聞のキリヌキなどが展示され、札幌に流れた時間をふり返るまたとない機会にもなった。札幌に確かにブルースはあり続けてきたのだ。
◆剥製と大きなスピーカーのある “ブルース喫茶“
「神経質な鶏」は1974年12月12日正午、札幌市豊平区旭町にオープンした。梶原氏の実家を改装した20人も入ればいっぱいの店には「アルテックA7という劇場用の大きなスピーカーを置き、ドアと床が赤、壁と天井は艶消しの黒、窓には空を飛ぶニワトリの剥製がぶら下がっていた」(札幌ブルースフェスティバル実行委員会フライヤーより)。
妖しいムードはもとより大きな音でブルースが聴けるということもあって、店の噂はすぐに広まった。楽器はアップライト・ピアノのみだったが、ほどなくスカイドッグ・ブルース・バンドの面々のホームグラウンドになったという。
さらに76年に店を広げPA装置が導入されると、さまざまなミュージシャンがやってくるようになる。84年に閉店するまでには、憂歌団をはじめとするブルース系だけでなくスターリンまで出演していたらしい。
梶原氏は大学時代に京都でブルース・ブームの盛り上がりを経験した一人だ。その情熱を元に皆の集まる場を創り、来日アーティストの招聘にも協力。ジョン・リー・フッカー、アルバート・コリンズ、フィリップ・フォーカーはじめ多くのブルースマンが札幌の地を踏んでいる。彼らも出演した75年に始まったコンサート「ブルース収穫祭」は、こうして北のまちにブルース有りを全国的に印象づけるイベントとなったのだ。
今回会場にはエルモア、マディをはじめ、大音量でずっとブルースが流れていた。きっと「鶏」でも大きなスピーカーからこんな風にブルースが聞こえ、みんな一つも聞き逃すまいと耳を傾け、わくわくしていたのだろう。
◆健在! スカイドッグ・ブルース・バンド
[メンバー]伊藤マーチン(vo/g) 金安アキラ(g) 船津康次(dr)門脇優(b) 太田優樹(key)
ライヴは“Confessin’ The Blues”で幕を開けた。スタンダードとも言える曲だが、ジェイ・マクシャンを思わせるスウィングが心地よい。華のあるヴォーカリスト伊藤マーチンがぐいぐいバンドを引っぱっていく。続いて“Messin’ With The Kid“ “Stormy Monday““Next Time You See Me“。ブルースのスタンダードもキャリアのきめ細やかさがあり心地よい。
75年4月結成のスカイドッグ・ブルース・バンドは、鶏とは切っても切れないバンドだ。当初は月に1回ほど出演し、経験を積みながら腕を磨いていったという。その熱くブルースに情熱を注ぐ姿は『Live 1975 at 神経質な鶏』として2024年にCD化された。bridge-inc.net/?pid=180000385
その後、1970年代には2枚のアルバムを発表し、他に先がけた日本語によるブルースや大塚まさじ、友部正人らとの共演でその名前を全国に知らせることになる。当時の様子はライヴ盤発売に際し行われたインタビューに詳しい。かつて東京でなければデビューできないと考えられていた時代に、京都のウエストロード・ブルース・バンド、小松のめんたんぴん、名古屋のセンチメンタル・シティ・ロマンスといった地元を拠点とするバンドが台頭した。その中にあって札幌を代表するのが間違いなく彼らだったのだ。
ステージはブルース・スタンダードから『北27西4札幌へ出てきてから』からシングル・カットされた<旅から帰った夜>から友部正人の<いっぱい飲み屋の唄>へ。『どうして旅に出なかったんだろう』のサポートを務めた彼らならではの1曲だ。
当時レコード会社の関係者に評判がよかったという<てやんでぇ>、そして<国道8号線>。こうして札幌に来てみると、旅の唄は特にこころに響く。当時、北海道からあちこちの街は気持ちの上で今以上に遠かったのではないだろうか。
ラストは“Same Old Blues”。1曲演奏するたびに金安アキラのギターがスリリングに加速していく。一時体調が心配されたが、身体に流れるブルースが目を覚ましたようで見事な復活だった。
アンコールを受けて呼び込まれたのはギタリストのバリー西谷。第1回目のブルース収穫祭に高校生で出演していたという彼は現在もブルース・セッションを率いるなど活躍している。“Sweet Home Chicago“そして“Mojo Workin“で観客からも声があがり、スウィート・ホーム・サッポロの夜はますます熱を帯びていく。
◆贅沢なジャジー・セッション
BAKERSHOP Bros.のステージが始まる前に、梶原氏のリクエストということで、トリオがセットされた。メンバーはこの後出演するBAKERSHOP Bros.から吉田ハジメ(vo/g)、関ヒトシ(g)、そこに出演を終えた伊藤マーチンが呼び込まれる。
「やるべ」と照れくさそうに笑い合って始めたのがサム・クックの“You Send Me”。空気が変わり、そしてベッシー・スミス “Nobody Knows Down And Out”へ。吉田ハジメと伊藤マーチンの声が交じり合い、関ヒトシのギターが艶っぽく寄り添う。ベッシーホールという名前はベッシー・スミスから名づけられたという。梶原氏はどんな思いをその名に託したのだろうと想像しながら、贅沢なセッションに身を委ねた。
◆多彩な顔を見せたBAKERSHOP Bros. Original Member
[メンバー]吉田ハジメ(vo/g) 関ヒトシ(g) 内海謙一(key) 後藤ヤギ(b) 鈴木ノリ(dr)
同じく札幌のシーンを支えてきたベーカーショップ・ブギはBAKERSHOP Bros. Original Memberとしてステージに立った。“Green Onion”で始まったステージからは基本的にソウルの味付けが濃厚なバンドだった姿を思わせる。
オーティス・クレイがソウル・ブラザーと呼んだシンガー澤内明の不在は残念だが、吉田ハジメに加え関ヒトシ、そして内海謙一もヴォーカルをとり、特に<Brother><夜汽車>をはじめ、オリジナルでは多彩な顔を見せてくれた。キーボードの内海謙一は自身がリーダーを務めたクォーテーションズのナンバーを2曲歌った後、鮮やかなニューオーリンズ・ピアノからヒューイ・ピアノ・スミスの“High Blood Pressure”を披露。90年代に活躍したクォーテーションズは国境を超えてエキゾチックなテイストを散りばめたバンドで、細野晴臣や鈴木慶一とも縁が深い。札幌に根づいたバンドの多彩さを感じさせる貴重なシーンだった。
当時の札幌のクラブをイメージしたという<揺れるレディ>はゆったりと米南部マラコ・レーベルあたりを思わせた。終盤は関ヒトシがスライドを弾きまくる場面もあり、バンドの魅力はレコードだけでは分からないとつくづく実感する。
◆70年代も今も変わらぬ世界へのメッセージ
ここでまたもや梶原氏からのリクエストでレアな1曲が実現した。
12月8日にちなみジョン・レノンの曲をということで選ばれたのが “Don’t Let Me Down”。ブルース風の味付けと吉田ハジメのダイナミックなシャウトによって、力強いメッセージが響く。
「ニワトリがオープンした頃は、たくさんメッセージソングが生まれました」と振り返る吉田が続いて歌い始めたのはスティーヴィー・ワンダーの<ある愛の伝説 - Love's in Need of Love Today>。「オーティス・クレイが来日したときに歌ったのを思い出して」とのことだったが、今もなお平和を願うソウル・ミュージックとして胸を揺さぶるナンバーだ。
◆アンコール 絆を感じるStand By Me
出演者全員そろってのアンコールには、もちろん梶原氏が呼び込まれる。曲はジョン・レノン・ヴァージョンの“Stand By Me“だ。梶原氏が伊藤マーチンの背中に回した手に、今ここに共にいる喜びを感じて胸が熱くなる。ブルースに出会い情熱を燃やしたかけがえのない時間を称え、お互いの人生をリスペクトする瞬間に立ち会えた幸福を感じたのは私ばかりではなかっただろう。
観客も含め、50年の月日を共にした仲間たちの思いが札幌で一つになった夜のラストは、札幌を代表するハーモニカ・プレイヤー千葉智寿もステージにあがり、 “Every Day I Have The Blues“。今日だけはこの歌も、いろいろあったけれど帰る場所はいつもブルースと歌っているように聞こえた。
文:妹尾みえ 写真:井内英男 Mie Senoh
協力:札幌ブルースフェスティバル実行委員会