ゴールドワックス・レーベルなどで吹き込まれた数々の名曲で知られ、O.V.ライトやジェイムズ・カーと並び評される屈指のサザン・ソウル・シンガー、スペンサー・ウィギンズが2023年2月13日に亡くなった。享年81。いまや伝説となった2017年4月ビルボードライブ東京での初来日公演、そのさなかに本誌で行ったインタヴューを追悼の意を込めてここにご紹介したい。
待望の初来日を果たした伝説的サザン・ソウル・シンガーを直撃!
「私はビッグ・アーティストになりたいとずっと思っていた」
[取材・文]鈴木啓志 [取材・訳・写真]編集部
[取材協力]ビルボードライブ東京
信じていたものは裏切らない。今回のスペンサー・ウィギンズのステージを見てこう感じた方は少なくないだろう。見るからに危なっかしいスペンサーも一旦声を放てば、無類の力を発揮することに称賛の声が相次いだ。だがインタビューは通い慣れた歌の道とは違う。簡単には行かないだろうと考えていた。幸い1歳違いである弟のパーシーが手助けしてくれ、興味深い話がたくさん聞けた。本音では、あまり知られていないパーシーに尋ねたい気持ちが強かったのだが、30分という限られた時間ではそれも無理。だが口の重いスペンサーに比べ、パーシーはそれを補ってくれ、頭がよくいい人だなあとますますファンになった。
パーシーは繰り返し日本に来たかったことを口にしたが、実は2009年と11年にはイタリアのポレッタ・ソウル・フェスティヴァルに2人で出演している。その反応が「素晴らしかった」ことから今度は日本への思いが強まったのだろう。アトランタのブッキング・エージェント、ジェフリー・ウィーナーがコンタクトしてきて今回の公演が実現したらしい。
――歌うようになった最初のきっかけを教えて下さい。
パーシー「まず、高校の時に私たちは歌い始めた。60年代はじめの頃だ。プロで歌うようになったのは、私が16歳の時だった。彼もその頃からだ。メンフィス界隈のナイト・クラブで歌っていた。そういう場所に出させて欲しいとすごく思っていた。年が若すぎて普通はクラブに入れてもらえなかったから。だから、とにかく歌うことにした。バンドと一緒にね」
―― たとえば、どんなクラブで歌っていたのですか。
パーシー「クラブ・ローズウッドとか、クラブ・ショウケイス、クラブ・パラダイスとかに出演していた。それにフラミンゴ・ルームも」
―― その頃はどういった曲を歌っていたのですか。
パーシー「カヴァーばかりで、私はサム・クックとかマーヴィン・ゲイの曲(その後は)ビートルズの〈イエスタデイ〉、ロッド・スチュアートなんかも歌っていた。スペンサーがやっていたのはボビー・ブランドやB.B.キング、レイ・チャールズの曲が多かった」
スペンサー「ブルースだ」
―― その頃パーシーさんはナッシュヴィルにいたのではないですか。
パーシー「高校卒業後、私はテネシー州立大学に入学してナッシュヴィルに移った。そこで運良く初めてレコーディングすることになった」
―― その頃からお二人は別々に活動することになったわけですね。
パーシー「そうだ。私はナッシュヴィルに移り、彼はメンフィスに留まった」
―― 兄弟は何人いたのですか。
パーシー「姉妹2人、兄弟5人、うちの家族には子供が7人いた」
―― お二人はプロのシンガーになりましたが、他の兄弟姉妹で歌っていた方はいますか。
パーシー「姉妹2人はシンガーだった。私が13歳、彼が14歳の時、兄弟姉妹でゴスペル・グループを組んだ。妹のほうは私たちと一緒にやらなかったが、歌は歌っていた。姉のマキシンはそのゴスペル・グループに加わっていた。ニュー・ライヴァル・ゴスペル・シンガーズという名前だった。妹の名はメアリー。メアリー・ロイス・ウィギンズだ」
―― 彼女たちは今どうしているのですか。
パーシー「マキシンはリタイアしたが、いまも教会のクワイアで歌っている。妹もすでにリタイアしていて、彼女の教会のクワイアで歌っている。彼女はそのクワイアの代表も務めている。彼女たちはどちらもリードで歌っているよ。姉と私たち二人は同じ教会に、妹は別の教会に所属していた」
―― お二人はブッカー・T・ワシントン高校に通っていましたね。
パーシー「その高校のグリークラブで歌っていた。それと、フォー・スターズというグループを組んでタレント・ショウでも歌っていた。メンバーは私とスペンサー、タイロン・スミスという今はナッシュヴィルに住んでいるやつと、それにデイヴィッド・ポーターだった。デイヴィッドは(後に)アイザック・ヘイズと一緒に曲を書いていたシンガー・ソング・ライターだ。私たちみんな、それにモーリス・ホワイトも一緒に高校を卒業した」
―― ジーン“ボーレッグズ”ミラーとはどうやって知り合ったのですか。
スペンサー「ある日私がクラブに行くと彼が演奏していた。そこで彼のバンドと一緒にギグをやらないかと誘われた。1961年か62年ごろのことだ」
―― そのバンドにアイザック・ヘイズはいたのですか。
スペンサー「ああ。彼はオルガン・プレイヤーだった」
―― ベーシストのクリーヴ・シアーズのことを覚えていますか。
パーシー「ああ、フロッグというニックネームで呼ばれていた。数年前に亡くなってしまったけど、彼の息子がベースを弾いている」
―― 当時のドラマーはハワード・グライムズですね。
スペンサー「そうだ、ハワード・グライムズだ」
スペンサー・ウィギンズ(左)とパーシー・ウィギンズ(右)
こんな調子で、スペンサーはこちらの質問にぼそぼそと一言で答えるだけ。しかし、日本では世界一うまい歌手という人もいますよと言うと、さすがに相好を崩した。
―― その素晴らしいトーンやヴォイス・コントロールの秘訣は何でしょうか。
スペンサー「私は本当に小さい頃からずっと歌ってきたからな。ビッグ・アーティストになりたいとずっと思っていた。ボーレッグズ・ミラーがディレクターだったバンドと一緒にフラミンゴ・ルームで歌っていた頃、ある晩、クイントン・クランチがクラブを訪れ、私を録音したいと言ってきた。1961(64?)年のことだ」
―― ゴールドワックスで吹込んだ中で一番好きな曲は何ですか。
スペンサー「〈オールド・フレンド〉だ。〈アップ・タイト・グッド・ウーマン〉と〈ウォーキング・アウト・オン・ユー〉もいい。本当にいい曲をたくさん持っていた。しかし、それに見合うような大きな成功を得ることはできなかった」
SPENCER WIGGINS
Old Friend / Walking Out On You
(Goldwax 312 / 1966)
SPENCER WIGGINS
Up Tight Good Woman / Anything You Do Is All Right
(Goldwax 321 / 1967)
パーシー「代わりに私から説明させてほしい。当時、私も彼もずっと若かった。彼がゴールドワックスで録音した曲はアメリカ中のラジオで流れていたし、海外のラジオでもかかっていた。しかし、マネージャーがいなかったことが彼の問題だった。だから、みんな彼を利用しようとした。クイントン・クランチは彼と契約をしたけど、ギグをブッキングするとか、そういうことは一切しなかった。日本、そして世界中の友人たちが定期的に彼のもとを訪れたのに、私たちは(海外に)行くことは出来なかった。大きな成功はやって来なかった。今までも(日本に)呼びたいという人たちと話したこともあったが、彼らは実現出来なかった。なぜか? それは私たちにも分からない。さっきも言ったが、彼にはマネージャーがいなかったからだ。私もしばらくマネージャーがいなかったが、後にマネージャー(ジェリー・クラッチフィールド)が付いてくれた。そのおかげで他のアーティストたちと一緒に多くのギグに出演できた。ニューヨークのアポロ・シアター、ワシントンDCのハワード・シアター、ヒューストンのレディオ・ボール、アトランタのピーコック、私の方はいろんなところで歌えた。しかし彼にはそのチャンスが来なかった。もっと若い時に、まだ喉が丈夫でもっと声が出ているうちに来たかった! レコーディングしたままのキーで、同じように歌いたかった! しかし、喉のせいで今では同じキーでは歌えない。もちろん、私のほうは幸いにも40年前、50年前にレコーディングした当時のキーでまだ歌えている。 でも彼は同じキーでは歌えなくなってしまった。これが現実だ。私たちの仲間は日本に来ていたのに。私たちと仲の良かったO.V.ライトも、ジェイムズ・カーも、オーティス・クレイ、シル・ジョンスン、オリー・ナイティンゲール(来日していないはず)、みんな日本に来ている。オリーは私たちの姉(妹)と結婚した。みんな私たちと友達だった。彼らをブッキングしていた人物は、どういうわけか私たちをブッキングしようとしなかった」
―― オーティス・レディングらのマネージャーだったフィル・ウォールデンがブッキングすることはなかったのですか。
パーシー「フィルが私のブッキングをしてくれたことはある。1967年にハワード・シアターのギグをブッキングしたのは彼だ」
―― 彼がスペンサーさんのブッキングをすることはなかったのですか。
スペンサー「なかった」
―― しかしオヴェイションズなどとツアーをしていませんでしたか?
スペンサー「ああ、オヴェイションズと回った」
パーシー「私の方はパーシー・スレッジやジュニア・ウォーカー&オールスターズ、ファイヴ・ステアステップス、ジーン・チャンドラー、イントゥルーダーズ、オスカー・トニーJr、ジョニー・テイラー、リトル・ジョニー・テイラー、ジミー・ヒューズ、オリジナル・バーケイズなどと一緒にやっていた。オリジナルのバーケイズは飛行機事故に遭って、もともと乗っていなかったベース・プレイヤーと、乗っていて生き残ったベン・コーリー以外は死んでしまった」
―― ジェイムズ・カーについて話を聞かせてください。
パーシー「彼は私たちの家の近所に住んでいた」
スペンサー「彼とは親しかった。彼も私と同じでゴールドワックスでレコーディングをしていた。〈アット・ザ・ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート〉とかな」
―― 彼と出歩くことはあったのですか。
パーシー「私たちはみんな10代で若かったし、一緒にバスケットボールをしたりしていた」
―― エディ・ジェファスンについて覚えていますか。
スペンサー「ああ。彼も近所に住んでいて、ゴールドワックスに吹き込んでいた。みんな知り合いだった。ルイス・ウィリアムズ&オヴェイションズも」
―― 1973年にフロリダに移住された理由は?
スペンサー「故郷のメンフィスであまり上手くいかなかったからだ」
パーシー「彼は実際にどうだったか覚えていないようだ。彼のギター・プレイヤーをしていた高校生の若いやつがいた。彼らはフロリダ州ペンサコーラでギグがあった。彼は私にそこまで連れて行くように頼んできた。そのギター・プレイヤーも一緒だ。わかった、連れて行ってやるよ、と。当時、私は母校で教えていて、ローカル・バンドで歌っていた。それで、私は仕事を休んではるばるフロリダまで一緒に行った。最初、彼は私と一緒に帰ると言っていた。フロリダに着き、エイブズ506クラブでのギグが終わった後、彼は心変わりしてメンフィスには戻らないと言い出した。フロリダに残る、と。あるDJがそのフロリダのギグをブッキングしてくれたのだけど、彼がもっとギグを入れられると言うので、スペンサーとそのギター・プレイヤーはフロリダに残ることに決めた。それがきっかけで、その後長い間フロリダに住むことになった。最初、彼はベル・グレイドに行った。この話はあなたができるだろ?」
スペンサー「ああ、最初にベル・グレイドへ行った。クラブ・パラダイスという名の大きなクラブがあって、いつもそこと契約して(歌って)いたものだ」
パーシー「そうそう」
スペンサー「でも、南フロリダ一帯(のクラブ)から出演依頼があった。あのあたりの人達は私のレコードを気に入ってくれていたのだろう。そういうわけで、私はフロリダ州をくまなく回っていた」
―― そのギタリストの名前は?
スペンサー「ケニー・レイ・カイトという名前だ」
パーシー「今はボビー・ラッシュと一緒にやっている。以前はデニス・ラサール(実際彼女と来日している)やアン・ピーブルズ、シャーリー・ブラウンらのバンドでギターを弾いていた。でも私たちとフロリダに行った頃はまだ16歳だった。彼は学校に行ったり行かなかったりで、リハーサルもできた」
PERCY WIIGINS
It Didn’t Take Much (For Me To Fall In Love) / The Work Of A Woman
(RCA Victor 47-8915 / 1966)
―― (RCA盤〈イット・ディドゥント・テイク・マッチ〉を見せながら) パーシーさん、昨日のステージでこの曲を歌っていましたが、これが最初のレコーディングだったのですか。
パーシー「ほら、(ライター・クレジットが)サム・ハフと書いてあるだろ。でもこれは名前を間違っている。誰がヘマをやらかしたのかは知らないが、サム・ハフはフットボール選手の名前だ! この曲を書いたのはリオン・ハフなんだ! ずっとこのままで訂正されなかった」
他にもジョージ・ジャクスン、メルヴィン・カーターらの名も出たが、すべて故人だ。生きて太平洋を渡り、パーシーが「これ(日本の公演)以上のものはない!」という言葉を残していってくれたことこそ日本のファンの財産だと感じた。
(『ブルース&ソウル・レコーズ』2017年8月号No.136掲載)
SPENCER WIGGINS / The Goldwax Years (ACE CDKEND-262 / Pヴァイン PCD-2634)SPENCER WIGGINS / Feed The Flame : The Fame And XL Recordings (ACE CDKEND-340 / Pヴァイン PCD-17380)