南部からの黒人の流入が増加するとともに、シカゴの街に響く南部流ブルースの音が大きくなっていく。1943年にミシシッピからシカゴへとたどり着いたマディ・ウォーターズ(本名マッキンリー・モーガンフィールド。1913-1983)は、当初はシカゴの先輩たちの洗練されたブルースに倣ったが、1940年代後半にはギターをアンプに通し、ミシシッピ・デルタで培ったディープ・ブルースを唸り始めた。
その本領が発揮された南部風味のエレクトリック・ブルースはシカゴでも評判を呼び、ジミー・ロジャーズ(ギター)、リトル・ウォルター(ハーモニカ)とのトリオはクラブでのバンド合戦で負け無しとなり恐れられた(彼らは「ヘッドカッターズ」と呼ばれた)。ただし、マディが契約していたチェス・レコードがバンドでの録音に踏み切るには少し時間がかかった。そのきっかけとなったのが、1950年1月に行なわれた、事実上のマディ・バンドによるパークウェイ・レコードでのセッションだ。契約の関係上、マディは歌わず、スライド・ギターと唸りだけ。ヴォーカル/ドラムスのベイビー・フェイス・リロイ(・フォスター)、リトル・ウォルターと吹込んだミシシッピ・ブルース古典〈ローリン・アンド・タンブリン〉は話題となり、チェスもいよいよバンドでの録音を始める。
1951年12月29日のセッションには、ジミー・ロジャーズ、リトル・ウォルター、アーネスト〝ビッグ〟クロフォード(ベース)、エルジン・エヴァンズ(ドラムス)が呼ばれ、本格的なマディ・バンドの録音が始まった。
マディ以外にもエレキ・ギターを用いたバンド録音を行なっていた者はいた。チェスに次ぐシカゴ・ブルースの重要レーベル、JOBに残された1950年代初頭のバンド・ブルースもまた南部臭の強いものだった。これらの録音と比べると、各楽器が緻密に絡み合った、マディ・バンドのアンサンブルは図抜けている。これにはジミー・ロジャーズの貢献が大きかったと思われる。ロジャーズはメンフィスにいた頃、南部きってのギタリスト、ジョー・ウィリー・ウィルキンスから影響を受け、ロバート・ナイトホークとの共演ではセカンド・ギターを担当した。そうした経験が、マディ・バンドのアンサンブルに生かされたのは想像に難くない。
マディの1953年9月のセッションから、オーティス・スパン(ピアノ)が加わった。これによりさらなるアンサンブルの向上が計られた。各楽器が力強くがっちりと組み合わさり、マディ・バンドに黄金時代が到来する。〈アイム・ユア・フーチー・クーチー・マン〉〈アイ・ジャスト・ウォント・トゥ・メイク・ラヴ・トゥ・ユー〉など、不朽のシカゴ・ブルース傑作が続々と生まれていった。数年後、予期せぬ事態が起こる。肌の白い若者たちがそのバンド・サウンドの虜となったのだ。
Robert Nighthawk / Live on Maxwell Street
(Rounder 2022) [1979]
シカゴ・ブルース
(Pヴァイン・ノンストップ PVBP-953)[2003]
[下]1970年にシカゴで制作されたドキュメンタリー映像作品。マディ・ウォーターズ、ジュニア・ウェルズ&バディ・ガイらの演奏シーンも貴重だが、シカゴ・ブルースの歴史を知ることができ、ブルースとは何かをブルースマンたちの言葉を軸に探ろうとした貴重な記録だ
Muddy Waters / Hoochie Coochie Man - The Complete Chess Masters Volume 2, 1952-1958
(Hip-O Select B0002758-02)[2004]
マディ・ウォーターズのアリストクラット/チェス作品を録音順に並べたシリーズ第2弾。マディ・バンド誕生から熟成する過程がわかる。CDは廃盤だがダウンロード販売あり