2023.5.30

【鈴木啓志のソウル・レコード・レーベル物語 第1回】ゴールドワックス -前編

60年代からブラック・ミュージックを探求し続ける音楽評論家、鈴木啓志さんが忘れられないレコード・レーベルの足跡を追う大人気連載《なるほど!ザ・レーベル》。連載開始から17年、No.172で第100回を迎えるのを記念してタイトルも新たにウェブで第1回から大公開!


 【第1回】サザン・ソウル黄金のレーベル、ゴールドワックス -前編

メンフィスでサンを始めたサム・フィリップスは黒人のように歌える白人がいたら絶対当たると考え、エルヴィス・プレスリーに巡り会ったというのは有名な話だ。だが、そもそもサムはメンフィスに埋もれた黒人アーティストがたくさんいるのを知り、それを何とか音に収めようとしてスタジオを始め、それが後にサンというレーベルに発展したのだった。反対に、大のカントリー好きだったジム・スチュアートは地元のカントリー・シンガーをレコードにしようとサテライトを始めたというのも有名な話だ。スタックスと名を変えるまでのそのレーベルの初期は、ほとんどカントリーばかりだったといっても差し支えない。これはレーベル経営というものは、そもそも抱いていた構想とは違う道を歩むものだという教訓として受け取ることができるかもしれないし、大きな情熱を持っていればいつかは報われることもあるという教訓として受け取れるかもしれない。大体においてレーベルのイメージというのは、往々にして後に第三者によって形作られるものだ。そこには宝探しのような意外性もあれば、シナリオのないドラマもある。そんな話を今回からしばらく綴ってみたい。

好スタートを可能にした優れたソング・ライターたち

ゴールドワックスを設立したクイントン・クランチルドルフ・ラッセルは、今の例でいえば、サンのようだったのだろうか、それともスタックスのようだったのだろうか。後にジェイムズ・カーで成功し、数は少ないとはいえ、南部では有数のソウル・レーベルに仕上げた手腕はジムに近いといえるかもしれないが、取り巻きに恵まれていたおかげで成功したジムより音楽的センスはずっと鋭かったといわねばなるまい。特にクランチはマスル・ショールズでカントリー・バンドの一員としてプレイし、50年代にはサンにレコーディングしているほどの強者だった。一方、ラッセルには音楽的なバックグランドはなかったが、薬剤師として成功し、ジム・スチュアートの成功を知って投資先をネラッていたところだった。こうしてこの2人が出会ってゴールドワックスが誕生することになる。この金銭面でラッセルが優位であったところから、ゴールドワックスはクランチの手を離れ、今やラッセルの息子に管理され、英国のエイス/ケントが権利を所持しているという次第だ。だが、それは置いておいて、とにかく音楽面での話に入ろう。まずは、あまり語られないクランチの音楽活動の話をしておこう。

『サン・セッション・ファイル』によれば、クランチは55年のチャーリー・フェザーズのセッションで何度かギターを弾いている。チャーリーはプレスリーを追ってサン入りしたカントリー歌手で、ロカビリー・スタイルを後々まで貫き通したピュアなアーティストとして評価は高い。ロカビリーはいうまでもなくカントリーの中でも濃厚に黒人音楽の影響を受けたものだ。ここにまずクランチの出発点があったとすると、黒人音楽は当然身近なものだったろう。この時、ビル・カントレルがフィドルを、スタン・ケスラーがスティール・ギターを弾いているが、奇しくもこの3人は後にメンフィスのソウル・シーンに少なからぬ貢献を果たすことになる。つまり、カントレルはクランチと組んでしばしば曲を書き、ケスラーはXLというレーベル(ビングハンプトン・ブルース・ボーイズ!)とサウンズ・オブ・メンフィスというスタジオの経営者として名を残すことになった。

50年代末から60年代初めにかけて、クランチはライター/プロデューサーとしてシーンに残っていた。50年代末にはハイが作られたが、そのカントリー歌手を扱っていた1人が彼だという(残念ながら、それを見つけることはできなかったが)。ぼくが知っているのは、彼がボビー・チャンドラーというメンフィスの歌手と深いつながりがあったということだ。ボビーは57年に“I’m Serious / If You Love’d Me”(OJ 1000)でデビューした白人歌手だが、スターダスターズというグループを従えたその作りは、まるでオリオールズのように黒っぽく響く。その〈アイム・シリアス〉を書いたのが、クランチとカントレルだった。この2人は“Me And My Imagination”(OJ 1005)という曲も書いているが、この曲こそ後にオヴェイションズに歌われることになる名曲のオリジナルとなるものだ。


BOBBY CHANDLLER & HIS STARDUSTERS – “I’m Serious / If You Love'd Me”
(OJ 1000)1957

続いて彼らが手掛けたのがフェアレインズという白人グループで、60年の“Little Girl, Little Girl / Comin’ After You”(Argo 5357)はカッコいいブルース・スタイルになっていて驚かされる。恐らく、こうした活動を経て出会った黒人がオーボエ(Oboe)こと、O.B.マクリントンだったのだろう。O.B.は後にカントリー歌手としてアルバムを残しているように、黒人シンガーとしての魅力は薄い。やはりゴールドワックスに深く関わることになるルーズヴェルト・ジャミスン、アイザック・ヘイズのように、従来の基準からすると黒人シンガー失格のような人たちが、ライターやミュージシャンとしてメンフィス・ソウルで重要な役割を果たしてきたことは否定できない。いわば、黒人音楽と白人音楽の接点にいるような人たちが、黒人と白人の緩衝役となり、橋渡し役を果たしてきたのがメンフィスという土地だった。これはメンフィス・ソウルでミュージシャンやライターとして白人が果たしてきた役割が大きいという事実を説明することにもなるだろう。


THE FAIRLANES – “Little Girl, Little Girl / Comin’ After You”

(Argo 5357)1960

オーボエは63年に“Mother-In-Law Trouble / Tradin’ Stamps”(Beale Street 1001=Savoy 1619)というノヴェルティなR&Bでデビューしたが、この〈トレイディン・スタンプス〉を書いたのが他ならぬクランチだった。この時クランチに新しいレーベルを始めるという構想が出来上がったのだろう。オーボエを通じてアール・ケイジルーズヴェルト・ジャミスンといった黒人ライターにも出会えたからだ。彼はこれからはカントリーっぽいものよりR&Bの方が行けるという感触を得ていたに違いない。64年にレーベルを始めるに当たり、1人はオーボエで行くと決まったものの、肝心な“黒い歌手”がいない。そこで出会ったのが、パーシー・マイレム率いるところのリリックスというグループだった。彼らは既に実績もあり力もあって申し分なかった。その第1弾“Darling / How A Woman Does Her Man”(Russell’s Goldwax 101)は記念すべきゴールドワックスの第1作となった。ここで“ラッセルズ”という形容が頭についていることに注意していただきたい。音楽面はあくまでクランチがリードするものの、経営面はルドルフ・ラッセルが面倒を見るという現れなのではないか。だが、レーベルとしてはいかにもカッコ悪く、クランチはハイを配給していたロンドンに身を任せる際に単にゴールドワックスと改め、それをGoldwax 910としてリリースし直している。ひょっとして、これは大分後(多分65, 6年)にリリースされたものかもしれない。その後も100番台は独自にリリースが続けられていたからだ。


OBOE – “Mother-In-Law Trouble / Tradin’ Stamp”

(Beale Street 1001)1963


THE LYRICS - “Darling / How A Woman Does Her Man”

(Goldwax 101)1963
“GOLDWAX”のロゴの上に“RUSSELL’S”と記されている

6枚目のリリースとなったのが、ご存知O.V.ライトの“There Goes My Used To Be / That’s How Strong My Love Is”(Goldwax 106)。これは最初から売れ行きが良く、ビルボード誌ではランクされなかったものの、キャッシュ・ボックス誌の64年9月にはポップ・チャートの100何位かにランクされた。恐らくそれを伸ばすためにもトリー(ヴィー・ジェイ系)の配給を仰いだのだろう。現在出回っているシングルにはオリジナルの文字通り金色のものと、トリー配給の黄色のものがあるが、後者の方が音がいいのだ。あまりオリジナルにはこだわっちゃいけないという教訓ですね。


O.V. WRIGHT – “There Goes My Used To Be / That’s How Strong My Love Is”
(Goldwax 106)

だが、ヴィー・ジェイ配給も手伝って評判を呼び、頻繁にラジオでもかかったのだろう。デュークのドン・ロビーがそれを耳にする。その後は……。よく知られているように、レコードは発売中止、O.V.はデュークに戻るということになる。それでも神様は決して見捨てちゃいなかった。その代わりにジェイムズ・カーというすごい男が入ってくる。オヴェイションズも入ってくる。ヒットも直後に生まれる。65年6月、オヴェイションズの“It’s Wonderful To Be In Love”(Goldwax 113)が正式にビルボードにランクされた初めての曲ということになる。R&Bチャートで最高5位、ポップで61位という成績は立派だ。ぼくも当時ラジオから流れたことを薄っすらと憶えているほど。

▶︎後編に続く


鈴木啓志

1948年北海道函館市生まれ。3歳の頃から東京に住み、現在川崎市在住。横浜国立大学経済学部卒。在学中にブルースやソウルのファン・クラブに深く関わるようになり、同時に執筆活動を開始、ブラック・ミュージック専門の音楽評論家となる。著書としては『R&B、ソウルの世界』(ミュージック・マガジン)、『ソウル・シティUSA~無冠のソウル・スター列伝』(リトル・モア)、『ゴースト・ミュージシャン~ソウル黄金時代、アメリカ南部の真実』(DU BOOKS)、『US Black Disk Guide』(編著/ブルース・インターアクションズ)などのほか、趣味の将棋の知識を活かした『東海の鬼 花村元司伝』(日本将棋連盟)もある。

NEWS

error: Content is protected !!