2020.8.1

Businessman Blues Vol.1(前編)

株式会社DXA代表 竹林昇氏

「出来るビジネスマンは本物の音楽、もっと言えばブルース&ソウルを聴く」
これは、本記者のこの仮説をテーマにインタビューを通して検証していく連載。

切っ掛けは、海外ドラマSUITSに出てくる、主人公の曲者上司ハーヴィー。
海千山千の彼のオフィスを見ると壁一面に飾られたオールドスク―ルの名盤の数々。
ドラマの中でも重要なシーンや、要所要所で秀逸なソウルミュージックが流れる。

私が出会った魅力的なビジネスマンの方々、それぞれの人生のワンシーンでは、どんな音楽が流れていたのか?それを伺ってみたいというのが出発点だったのである。

そして、この企画を思い立った際に、真っ先に頭に浮かんだのが、今回ご登場いただく、株式会社DXA代表竹林昇氏

元ファミマドットコムの代表等、伊藤忠グループのDXを語る上では欠かせないレジェンドであり、私の周りの竹林氏を知る人は皆口をそろえて、ビジネスと音楽、ブルース&ソウルを愛する人だという。

緊張しながら、お願いしたところ、二つ返事でOKをいただいたのが昨年末。

そこから、突如のコロナ禍で身動きが取れなくなっていたのだが、このままではらちが明かない、逆に今こそ、音楽とそこにまつわる物語を人々にお届けしたいと思い、無理を言って、今回の取材を敢行した。感謝しかない。

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インタビューの場所は、「BAR461」。

取材はこちらしかないと思い、竹林氏にお願いし、お店にもご協力を頂いての取材となった。

竹林氏に最初にお会いした際に、最高のお店があると伺い、直ぐにご案内いただいたのが同店。
お店が好きすぎて、毎日通えるように近所に引っ越してしまったと伺っていた。

そして同店は憂歌団の木村充揮氏、小坂忠氏、永井ホトケ隆氏、etc
日本のブルース&ソウルを語る上では欠かせないミュージシャンたちもライブを繰り広げる。
そんな、ブルース&ソウルファンにはたまらないお店なのである。

前段が長くなったが、以下インタビュー。

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■お仕事について

---今回はインタビューについて快諾いただきありがとうございます!最近もお忙しいと思いますが、日本中飛び回っているのですか?

忙しくしてますよ。でも、3月中旬以降はほぼ100%リモートワーク。最近は9割くらいかな。

コロナの感染拡大でどういう仕事の仕方になるんだろう、と思っていたのですが、今はほぼ、一日中リモートワーク、Webで打ち合わせしてる。この仕事の仕方の良い面に気づき始めているところです。(笑)

外出と移動は減ったけど、時間があるかぎり打ち合わせを入れてしまう傾向があって却って忙しくなっている感じです。

---どのようなお仕事されているんですか?

顧客企業のDX(デジタルトランスフォーメーション)推進支援のコンサルティングを行っています。デジタル/ITで企業の業務を抜本的に変革する、または新しいデジタルサービスを企画展開するプロジェクトを応援、支援する仕事なんです。

自分ではDXプロジェクトの「シェルパ」と自称しています。顧客企業と一緒に登りたい山を定めて、登山道を洗い出し/選択したら、装備を担いで頂上まで一緒に登る、そんな役割です。

仕事の仕方としては、設計士(アーキテクト)と考えて下さい。プロジェクトやプロダクト(サービスと製品)の企画設計、それを実現するためのITシステムの設計、プロジェクトチームやそのチームの運営方法の設計などを支援しているんです。

---最近だと、ビジネスデザインともいいますよね。

デザインと呼んでもらっても良いと思います。デザインって定義が難しいんですけど、、最近ある人に「デザインとはアイデアに命を吹き込む事」という言葉を教えてもらいました。

アイデアを形にするだけでなく、「命を吹き込む」事。アイデアが自律的に動き出して、携わる人たちを巻き込んで、その考え方や行動を変えていくようにすること、という意味だと理解しています。

---ぐっときますね。まさにソウルですね。

(笑)

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■音楽遍歴

---お生まれは香川県ですよね、どんな子供だったのですか?

うどん県とも呼ばれる香川県丸亀市近くの郡部(相当な田舎!)で育ちました。しかも小学校の頃は不登校児でした。小学校は合計しても2年くらいしか行ってないかも知れません。

理由はよく分かりませんが、とにかく団体行動が苦手でした。反抗的という訳ではなくて、とにかく苦手だったんです。朝、登校しようとすると本当に熱が出るくらいに。

学校に行けないから、基本的に家で一人で新聞や本を読んで過ごしてました。辞書や辞典を最初から順番に読んでいったり。相当に内向的な過ごし方ですよね。

小学校の授業には出られないけれど、小学校の図書室に行って、本を借りて読んだりしてました。(笑)

---音楽との出会いは?

父親が大工あがりで工務店を営んでいたせいか、しょっちゅう家で職人さん達と宴会をやってました。そこでみんながよく歌うんです、民謡や戦前戦後の流行歌を。伴奏やカラオケもなく手拍子だけで。

子供だった自分は傍で聞いていただけだったんですが、妙におぼえているんです。その頃そうやって聞いた歌を。

今年やっているNHKの朝ドラ「エール」の中で歌われる戦前の流行歌(たとえば、♪船頭可愛や、という曲)も 口ずさめたりするのは、自分でもとても不思議です。

---民謡ってまさに日本のソウルミュージックですもんね。

そうですね。

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それから、テレビで流れていた歌謡曲。

最初は御三家(橋幸夫など)とかを聴いてたんですが、、だんだん物心をついてくるころ、日本に大GSブームが来た。

7つ年上の姉がいて、ザ・タイガースが大好きだったんです。その影響か、ザ・タイガースを一杯聴きました。もちろん、スパイダースやテンプターズなどの他のGSも。

後で考えてみると、その頃のGSって、当時のイギリスの楽曲に憧れた人達が、それを日本風にアレンジして、日本語で歌ってた要素が大きかったんですよね。

もちろん、原曲に日本語を付けて歌った曲もたくさんあった。

その結果、その頃のGSを通じて当時のイギリスのヒット曲を間接的に聞いたことになったんだと思います。The Rolling Stonesの曲もザ・タイガースのカバーで聴いたのが最初です。色んな音楽をGSを通じて知ったんだと思います。

そこから、かなり影響受けたと思う。

その頃、人生で最初にレコードを買いました。The Beatlesの「レット・イット・ビー」でした。買った時点ですでにThe Beatlesは解散していたんだけど、それは後で知りました。

ラジオでから流れていたフォークソングもたくさん聞きました。フォーククルセイダーズ、岡林信康、ジローズ、高石ともや などです。

そして、中学になって、吉田拓郎に出会うことになります。。

1972年に出た「元気です」ってアルバムを聴いて一発でやられましたね。

こんな格好いい音楽があるんだなって。ところで、お店のマスターの佐藤さんも隠れ拓郎ファンなんですよね(竹林氏、マスターお二人で笑)

---最初に衝撃を受けた音楽は吉田拓郎なんですね。

そうなんです。自分の言葉で、自分の伝えたい事を、自分のメロディーとリズムで作って、自分で楽器を演奏して自分で歌うって、これはすごいと思ったんです。

たわいのないことしか歌ってなかったんです。政治的な事を歌うわけでもないし、
なにかの主張を込めてるわけでもない。自分の日常とそこで感じた気持ちを唄ってるだけなのに、逆にそれがとてもカッコよく感じた。等身大な感じがして。音楽でこういうこと出来るんだ、やっていいんだ、と思ったんです。

吉田拓郎が好きだというBob Dylanを聴くようになったり、彼の「Live73」という1973年のライブ版での演奏を聴いて、ロックという音楽を意識したりと。

そういう道を作ってくれたのは吉田拓郎だったと思います。

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この頃から、ラジオの深夜放送を聴くようになって、そのラジオから流れてくる洋楽を聴くようになりました。ベイエリアから、リバプールから、ラジオの電波に乗って流れてくる音楽に夢中になって、とにかく一晩中ラジオを掛けっぱなし、という状態。ラジオで知ったミュージシャン/バンドのレコードを買うようになったのもこの頃です。

何キロも離れた丸亀市のレコード屋さんまで自転車ででかけて、何度も視聴させて貰った買ったレコードを自転車の前カゴに入れて大切に大切に持って帰る中学生でした。この頃買ったのは、The Beatles、 The Rolling Stones、Bob Dylanなどだったと思います。

それと並行して、当時生まれだしていた、日本のミュージシャンによるオリジナルな音楽をいっぱい聴きました。当時はフォークソングともニューミュージックとも呼ばれていたけど、ジャンルを気にせず、とにかく何でも聞きました。

泉谷しげる、井上陽水、西岡恭三、ティンパンアレイ、サディスティックミカバンド、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ウエスト・ロード・ブルース・バンドなど。今思うとジャンルを関係なく、節操もなくカッコいいと思う音楽をなんでも聴いたんだと思います。

---音楽にはまっていったんですね。いろいろ研究していったという感じですか?

いやいや、研究なんてとんでもない。むしろ着いていくので精いっぱいでした。本当にその頃(1970年代中盤)は日本も含めて世界中が音楽のカンブリア大爆発期で、いろんなジャンル、いろんなスタイルのミュージシャンがどんどん出てきてた時期だったんだと思います。

最初に聴いたアルバムを好きになると、同じミュージシャンのそれより前のレコードを遡って聴いたり、いいなと思っているバンドの最新のを聴いたりで、解釈なんてしている余裕もないし、そんな気にもならなかった、そんな感じです。

---友達とかの影響もあったのですか?

中学の頃はそうでもなかったけど、高校になって、そういう友達が急に増えたんです。

実は郡部の小さな中学から、丸亀市にある丸亀高校という高校に行ったんです。香川県内の色んな地域からやってきているいろんな奴がいて、その中で、この曲を聴いてどう思うとか、この本を読んで、お前はどう感じるか、とかいう話をする友人が何人か出来たんです。

レコードをお互いの家で掛け合って、勧めたり感じたことを述べあったりしました。

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---この時期に、一番影響を受けていた音楽はどの辺りなんですか?

Deep Purple、Led Zeppelin、Yes、ELP、Cream、Allman Brothers Band、Aerosmith、John Lennon、Stones、Eagles、Bob Dylan とか、とにかく何でも聞いてました。。

一番聴いたのは、いわゆるハードロックだったかも知れません。それも、爆音で。

日本のもたくさん聴きましたよ、
でも、あとになって考えると、このころ聴いた多くの音楽の共通点はブルースベースのロックだったんです。エレクトリック・ブルースというのかな。

その頃はそんなことには気が付かなかったし、考えもしなかったんですけどね。

---友達と情報を共有してという感じですね。なんか青春ですね。

このころ、音楽の情報源は町の本屋で買う雑誌かライナーノーツのような音楽評しかなかったんです。

いわゆるロック雑誌、ミュージックライフとか、音楽専科とか、ニューミュージックマガジン、ギター雑誌のGutsなどの。ライターだと渋谷陽一さん、中村とうようさん、湯川れいこさん、福田一郎さんといった人達です。

---ライターの人がみんなに影響与えてたんですね

音楽評論っていうのが大きな影響力を持ってたんです。

音楽雑誌で〇〇さんがこんな誉め方をしてるから聴いてみよう、
だれがライナーノーツ書いてるから、このレコード買ってみよう、というような。

---友達とライターの派閥で激論したりしたんですか?おまえは○○派か?とか

そうそう(笑)。

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で、大学に入って東京に出てくると、もっと音楽を聴きまくるようになって。

そのころ(1970年代終わり~1980年代初め)はロック喫茶というのがあって、
そいうところでお皿を回している人って、これは、一種の評論家だったんだと思います。。

新しい音楽にアンテナを立てていて、その音楽を取りいれて自分の気に入ったレコードをお店でかける、みたいな感じです。

このころ東京の多摩地区(中央線沿線)に下宿していたんです。

学校に近かったというのもあるんですけど、この中央線沿線には沢山のロック喫茶があった。毎日毎日、大げさにいうと一日中ロック喫茶に行ってた感じでした。

当時、吉祥寺のサンロード脇に「赤毛とそばかす」っていう大好きなロック喫茶がありました。

そこでは、リクエストも出来たんです、しかも大音量で。毎日行きたくて、その前に住んでいた国分寺から吉祥寺に引っ越しちゃった(笑)

---やっぱりお店に惹かれて引っ越しちゃうんですね(笑)

当時からその傾向があったのかも(笑)

大学時代に一番聞いたのはBruce Springsteenでした。

彼の音楽と彼の言葉が一番心に響いたんです。

あとは、Jackson Browne、Tom Petty、Bob Seger、Aerosmith、Bob Marleyなどかなぁ。PoliceやClash、Stranglers、PretendersなどのいわゆるNew Waveも聞きましたよ。

日本の音楽では、RCサクセション、憂歌団、そして、吉田拓郎も継続して聴いてました。。

---ここで憂歌団が現れてくる感じなんですね。

憂歌団は確か、高校生の頃に、ラジオから流れてきた、彼らのデビュー曲「おそうじおばちゃん」を聴いて知りました。

曲も言葉も音色もドンピシャで、これは格好いいと惹きつけられました。

---

後編に続く

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