60年代からブラック・ミュージックを探求し続ける音楽評論家、鈴木啓志さんが忘れられないレコード・レーベルの足跡を追う大人気連載《なるほど!ザ・レーベル》。No.72(2006年12月号)の連載開始から17年、No.172で第100回を迎えたのを記念してウェブで第1回から大公開!第一回はこちらから
【第2回】鋭い嗅覚で黒人音楽を広めたスタン・ルイスのジュウェル
ニューヨークやシカゴのような大都会を別とすれば、黒人音楽の盛んな地と音楽産業が盛んな地は必ずしも一致しないようだ。前回取り上げたゴールドワックスのあったメンフィスは、50年代から70年代までその両方でリードしたが、電波の面でリードしたのはむしろナッシュヴィルの方だった。今回取り上げるジュウェルというのはルイジアナ州の西北、ほとんどテキサス寄りにあったが、そこで活躍したアーティストやライヴの状況が伝えられることは少ない。むしろ、その西にある大都会テキサス州ダラスの方がはるかにその活動が生き生きと伝えられている。だが、ことレコード産業という面に限ると、ダラスには成功したレーベル、ディストリビューターは存在せず、シュリーヴポートに大きく差を付けられている。なぜこんな地で成功できたのだろうと不思議な気がしないでもないが、それはひとえにオーナーのスタン・ルイスの手腕といっていいのかもしれない。
ジュウェルといえばスタン・ルイスである。レーベルの曲名クレジットにはデュークのドン・ロビー(デドリック・マローン)と同じように、何から何まで自分の名を入れてしまうという困った人ではあったが、その黒人音楽に対する鋭い嗅覚は今なおすごかったと思わざるを得ない。なにしろ、60年代にブルースがどんどん先細りしていく時に、カーター・ブラザーズからライトニン・ホプキンスまでレコードにし、さらにサザン・ソウルからファンクまで素晴らしい作品を後世にまで伝えてくれたのだ。スタン一家はイタリア系の宝石商の出で、小金を持った彼は早くから音楽ビジネスに身を染めている。既に19歳の時に5台のジュークボックスを持っていたが、黒人のレコードの供給の難しさに直面した彼は、妻のポーリンと共にレコード店を始める決意を固める。それは何と1948年6月22日のことだったという。ところはシュリーヴポートの728テキサス・ストリート。この“728テキサス”が後にどれほど有名になったことか。それは単に“スタンズ”と名付けられた。
それが軌道に乗り始めると、彼は同じ場所で“ワン・ストップ“を始めた。このワン・ストップというのは、ディストリビューターより小口の商いをする卸売りであり、小都市にも点在していた。後にスタンズは店、ワン・ストップ、ディストリビューターを兼ねる南部でも大きな会社に発展する。余談になるが、68年頃ビルボードの“バイヤーズ・ガイド”を手に入れた時、その広告が載っていたが、配給するレーベルは数百にも及び目を見張ったものだ。しかも、ブルース/ソウル系のレーベルがうじゃうじゃある。これはいいと直接レコードが買えないかと手紙を書いたが、梨のつぶてだったことを思い出す。
スタンはそれだけに留まらず、地元やアーカンソー州リトル・ロックの放送局のスポンサーともなり、名声を獲得していった。すると、チェス、インペリアル、スペシャルティといった有力レーベルからタレントはいないかという申し込みも来るようになった。もとよりブルース好きの彼である。シュリーヴポートではスティックホース・ハモンドというカントリー・ブルースマンが流しているのを目撃したりしている。驚くのは50年に既にサニー・ボーイ・ウィリアムスンII世とコンタクトを取り、レコーディングしようかという話までなったということである。むろん、これは実現せず、彼はトランペット入りするわけだが。それでも、ビッグ・ジョー・ウィリアムズ、カントリー・ジム、ピート・マッキンリーなどはレコーディングし、これは後にスペシャルティからLP化されている。他にはチェスのためにローウェル・フルスンやT.V.スリムをプロデュースしているという。
初期のジュウェルを飾った南部の気骨あふれるブルース
63年になり彼はそれなら自分のレーベルをやろうと思い立つ。それがジュウェルの始まりだった。むろん宝石という意味だが、それはシカゴの有名な宝石店チェーンの名前から取られたものだった。その最初のリリースがボビー・チャールズの“Everybody’s Laughing”(Jewel 728)というもの。ここでも728が使われていることに注意されたい。後にジェリー・マッケインが“728 Texas”(Jewel 753)という曲を出しているように、彼は徹底的に728にこだわった。その住所は南部で黒人音楽に携わっている者なら知らぬ者はいないだろうという自負も含まれていたに違いない。
JERRY MCCAIN - “728 Texas (Where The Action Is) / Homogenized Love
(Jewel 753)1965
ボビーはルイジアナの白人R&Bアーティストだが、チェス時代からスタンズの常連だったのだろう。初期はこのように白人が多く含まれており、最初の黒人アーティストは以前2枚組で紹介したバニー・プライスの“Monkey See-Monkey Do”(Jewel 733)だったろう。さらにペパーミント・ハリスの契約がそのレーベルに弾みをつけた。彼は742から登場するが、テキサスの重厚なブルース・スタイルは65年当時のデュークでは忘れられかけたものとなっていた。その間隙をジュウェルが突いたのだ。といって、ジュウェルはルイジアナやテキサスのアーティストばかりこだわっていたわけではない。それまでのワン・ストップ・ディストリビューターとしての力を生かし、ウェスト・コーストからシカゴまで網をはりめぐらせた。その成果がカーター・ブラザーズやテッド・テイラーの獲得である。前者の最初のリリースはご存知“Southern Country Boy”(Jewel 745)で、ウェスト・コーストのデューク・コールマンからの買取のような形ではあったが、これはジュウェルの性格を鮮明に示したものとなった。南部の気骨を示すハードなブルース。しかも、R&Bチャートの21位まで送り届けているという点。これが65年という時点でいかに難しいことだったかは少しチャート通の人ならわかるはずだ。先にも触れたように、デュークではボビー・ブランドは既にストレート・ブルースよりR&B路線に乗り入れていたし、スタンが手本とするチェスでもリトル・ミルトンのR&B〈ウィア・ゴナ・メイク・イット〉が精々示せる“ブルース調”の作品だった。B.B.キングに至っては、ABCパラマウントの作品は奮わず、古いケントの作品がようやくチャート入りするという有様だった。
(左)
BANNY PRICE - “Monkey See-Monkey Do / There Goes The Girl
(Jewel 733)
(右)
THE CARTER BROTHERS - “Southern Country Boy / Do The Flo Show
(Jewel 745)1965
テッド・テイラーの方は当時アトコの契約アーティストだったので、まず古いエブ時代の作品をリリースして南部リスナーをつなぎとめ、しかる後に傘下(ロン)のアーティストにすることに成功している。ブルース系では後に獲得するリトル・ジョニー・テイラーと並んで二枚看板だったといってもいいだろう。
ジュウェルのカタログを丹念に眺めてみると、リトル・リチャーズ、オブジェクティヴズ、ジョニー&ジョン、ウォーレス・ブラザーズといったディープ・ソウル系の人たちも捜せるが、その色はずっと“ブルース”に統一されていたといっていい。後にライトニン・ホプキンス、ローウェル・フルスン、チャールズ・ブラウンといった大物までアルバムを出すことになるが、やはりウェスト・コーストのカーティス・グリフィンからシカゴのワイルド・チャイルド・バトラーまで揃えたカタログがいかにも魅力に富んでいる。中でもジュウェルらしい秀作がフランク・フロストだった。シカゴやメンフィスのレーベルがもはや視野に入れていなかったミシシッピのダウン・ホーム・ブルースをまさにジューク・ジョイントそのままに音にパックしてみせたのは、ジュウェルの功績のひとつだといっていい。その音の録り方はシカゴ・ブルースの黄金期、つまりは50年代のチェスやその他のレーベルに見られるものであり、それが60年代に蘇ったことにぼくらは狂喜したものだ。
▶︎後編に続く
鈴木啓志
1948年北海道函館市生まれ。3歳の頃から東京に住み、現在川崎市在住。横浜国立大学経済学部卒。在学中にブルースやソウルのファン・クラブに深く関わるようになり、同時に執筆活動を開始、ブラック・ミュージック専門の音楽評論家となる。著書としては『R&B、ソウルの世界』(ミュージック・マガジン)、『ソウル・シティUSA~無冠のソウル・スター列伝』(リトル・モア)、『ゴースト・ミュージシャン~ソウル黄金時代、アメリカ南部の真実』(DU BOOKS)、『US Black Disk Guide』(編著/ブルース・インターアクションズ)などのほか、趣味の将棋の知識を活かした『東海の鬼 花村元司伝』(日本将棋連盟)もある。