1990年8月27日。ヘリコプターの墜落事故がスティーヴィ・レイ・ヴォーンの命を奪った。彼の死は大きすぎる損失だった。
遡ること7年。デイヴィッド・ボウイのアルバム『レッツ・ダンス』でアルバート・キングみたいなギターを弾いている奴は誰だ?と、当時ブルース・ファンの間で話題になった。その男、スティーヴィ・レイ・ヴォーンは1983年にメジャー・デビュー・アルバム『テキサス・フラッド』を発表した。ボウイのアルバムへの参加や、伝説的プロデューサー、ジョン・ハモンドがエグゼグティヴ・プロデューサーを務めたこともあり、高い注目を浴びたが、なによりそのアルバムの中身が衝撃だった。ニュー・ウェーヴ〜エレクトロ・ポップが人気を得ていた時代に、ギターを前面に出した、ノー・ギミックのブルース〜ロックンロールで攻める。熱心なブルース・ファンでなければ知らないような曲が並ぶ。アルバム・タイトル曲が、ラリー・デイヴィスの1958年録音がオリジナルだと分かる人がいったいどれほどいたのだろうか。
デビュー・アルバムは最高38位だったが、半年で50万枚を売上げた。翌年にはセカンド・アルバム『クドゥント・スタンド・ザ・ウェザー(邦題「テキサス・ハリケーン」)』を発表。今回も知る人ぞ知るブルースが収められていた。ジミー・ウィルスンが1959年に録音したハードなスロー・ブルース〈ティン・パン・アレイ〉。スティーヴィがテキサス州ルボックにある店のジュークボックスでたまたま耳にし叩きのめされたという曲だ。彼の大きなインスピレーション源となったジミ・ヘンドリクスの〈ヴードゥ・チャイル(スライト・リターン)〉も収録された。スティーヴィはジミ以来のアメリカン・ギター・ヒーローへと駆け上がろうとしていた。
スティーヴィの登場により、ブルースへの注目が高まった。B・B・キングはそのギター・プレイを絶賛すると同時に、ブルースを次世代へ伝えてくれたことに感謝している。バディ・ガイも自伝でスティーヴィがブルースを若者に戻したと語っている。そのバディをはじめ、アルバート・コリンズ、ジョニー・コープランドなどのヴェテラン・ブルースマンが90年代にメジャーとレコード契約を結べたのもスティーヴィのおかげと言っていい。
薬物とアルコール依存から抜け出し、1989年に放った4作目『イン・ステップ』で新たなスタートを切ったスティーヴィ。翌年には兄ジミーとのヴォーン・ブラザーズ名義での『ファミリー・スタイル』を作り上げたが、発売の前に世を去った。
その後、雨後の筍のごとく〝ポスト・スティーヴィ〟が登場した。その中で「ブルースを演奏する」のではなく「スティーヴィ・レイ・ヴォーンを演奏する」ような者がいたのは残念だ。スティーヴィは生涯をかけて、常にブルースと真剣に向き合っていたのだから。