2023.2.14

PHOTOGRAPH BLUES - カメラが語るブルースマン 【第6回】ウィリー・ディクスン

印象に残るブルースマンの写真を数多く撮影したシカゴの写真家/デザイナー、ピーター・アムフト。
『PHOTOGRAPH BLUES ─カメラが語るブルースマン』は、彼が撮影した写真とともに、撮影時の貴重なエピソードを綴った連載で、ブルース&ソウル・レコーズNo.76〜87に掲載されました。(編集部)

.日曜日のとっておきの服

1969年の春。ニューヨークの有名なデザイナー、ヴァージニア・ティームから電話が掛かってきた。彼女はその頃コロンビア・レコードからリリースされるウィリー・ディクスンのLPを手掛けていた。“I Am The Blues”というタイトル文字のデザインは既に出来上がっていたので、あとはウィリー・ディクスンの近影が彼女は必要だった。ただ、古き良き時代のフォーマルなイメージを彼女は望んでいるという。1880年代後期、ちょうど南北戦争が終わった頃に撮られた鉄板写真のような。

私は彼を椅子に座らせようと考えた。長時間の感光が必要だった写真黎明期のポートレイトは、そうやって人物をじっとさせたものだ。フォト・スタジオの裏路地で古いヴィクトリア時代のピアノ・スツールも私は見つけていた。金属製のかぎ爪がガラス製のボールを掴んでいる“クロウ&ボール”仕上げの脚を持った椅子だ。そして私がスタジオで使う茶紙の背景。あれは昔のスタジオで使われたキャンバス地の背景幕のように見えるだろう。

撮影の数日前にウィリーの奥さんが電話を掛けてきて、彼にどんな服装をさせればいいかと訊いてきた。「日曜日に教会で着るような晴れ着がいいね」と私は答えたが、それはただ、きちんとした格好でという意味で言っただけだった。

私が知らなかったのは、ディクスン家がセヴンス・デイ・アドヴェンティスト(安息日再臨派教団)の信者だったということ。そして日曜日の教会での集会には、男性信者は白黒の衣装を着て行かなくてはならない、ということだった。

だからウィリー・ディクスンはあんな格好で私のスタジオに現れたのだ。襟の折り返しの細い黒いスーツ、黒く光る靴、糊付けされた白いシャツ、とても細い黒いタイ、そして白いソックス。正装用のフェルト帽まで被っていた。確かに、彼の信仰に基づいた“日曜日の服装”には違いなかった。

もちろん彼の服装に文句なんてない。私は彼を椅子に座らせ、10分ほど撮影を行った。私たち以外には誰もスタジオには居なかった。撮影の間、彼は有名なエジプトでラクダに乗った話をしてくれた。皆さんは彼がラクダに乗った写真を見たことがあるだろうか。300パウンド(136キロ)の太っちょの彼がピラミッドを背景にラクダに跨っているあの写真を。

ちなみに、私のスタジオが入ったビルのオーナーはダン・エイクロイドの友人だった。実はこの写真を一枚ダンにプレゼントしている。映画『ブルース・ブラザーズ』でのあの服装を彼はここからヒントを得たのかもしれない。チャーリー・マッスルホワイトもよく遊びに来ていたので、あのサングラスは彼の真似だろう。


ディクスン、泣きながら笑う

ウィリーと私はスタジオにふたりきりだった。アシスタントもファンも居ない。ただ私たちだけ。白黒写真を撮り終え、私は愛用の戦前製ローライにカラーフィルムを装填する。外は雨が降っていて、スタジオの中はとても静かだった。そして、ウィリーは穏やかに鼻歌を歌いだした。120フィルムを填めながら私は彼を見た。「なあ」と彼が話し出す。「涙を流すことがあっても、ブルースを歌って笑いとばせることってあるよな」

それなら、と私は彼の頬を強くぶって涙を流させた。── これは冗談。実は洗面所の薬棚にあった目薬を使ってあの大粒の涙を演出したのだった。それがこのポートレイト、“Smiling Through The Tears”だ。

photos & text by PETER AMFT
[企画協力]永田鹿悟/小田憲司 [日本語訳]井村猛
(c) TWO VIRGINS / Peter Amft


偉大なるマルチ仕事人ウィリー・ディクスン
[文]永田鹿悟

ウィリー・ディクスンをご存知でないブルース/R&B系ファンはまさか存在しないだろう。ウッド・ベーシスト、ソングライター、アレンジャー、プロデューサー、タレント・スカウトとして1930年代から半世紀以上精力的な活動を続けた彼の功績は実に大きい。マディ・ウォーターズの〈アイム・ユア・フーチー・クーチー・マン〉、ハウリン・ウルフ〈イーヴル〉、リトル・ウォルター〈マイ・ベイブ〉は序の口で、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイ、マジック・サム、ココ・テイラーのデビューに大きく関わり、手掛けたミュージシャンは、エルモア・ジェイムズ、ジュニア・ウェルズ、ローウェル・フルスン、アイク・ターナー、ベティ・エヴェレット、J.B.ルノアー、ボ・ディドリー、ロバート・ナイトホーク、ハロルド・バラージュ等など。彼無くしては、シカゴ・ブルース/R&B界はこれほど華やかな世界になり得なかったろう。
(『ブルース&ソウル・レコーズ』2008年6月号 No.81掲載)


【編集部追記】
ウィリー・ディクスン(本名:ウィリアム・ジェイムズ・ディクスン)は1915年7月1日ミシシッピ州ヴィクスバーグ生まれ。長年糖尿病を患い、1992年1月29日に心臓発作によりカリフォルニア州バーバンクで亡くなった。幼少期から教会で歌い、10代でユニオン・ジュビリー・シンガーズに参加、その頃から自作の曲を他のグループに提供するようにもなった。プロ・ボクサーを目指して1936年にシカゴへ。翌年にはイリノイ州のヘヴィー級チャンピオンになり、あのジョー・ルイスのスパーリング相手も務めたという。しかし、レオナード・キャストンとの出会いで音楽の世界へ転向、ビッグ・スリー・トリオでベースを弾くようになる。チェス・レコードとは当初アーティストとして契約するも、その後タレント・スカウト、プロデューサー、スタジオ・ミュージシャンとして大活躍するようになる。永田氏のコラムにあるように彼が関わったアーティストは枚挙にいとまがない。1994年に《Rock & Roll Hall Of Fame》、2013年に《Chicago Blues Hall Of Fame》にその名が刻まれた。

本誌ではNo.135(2017年6月号)でウィリー・ディクスンの特集を組んだ。そちらも是非ご覧いただきたい。


WILLIE DIXON
I Am The Blues
LP(Columbia CS-9987)1970

WILLIE DIXON
The Chess Box
2CD(Chess/MCA CHD-2-16500)1988

1988年に発売された編集盤。チェス・レコードの音源から、ウィリー・ディクスン本人名義の曲と、他のアーティストによるディクスン作品を収録。主な代表曲はここで聞くことができる。


 PETER AMFT(ピーター・アムフト)
1941年シカゴ生まれ。60年代からブルース・アルバムのジャケット写真などを数多く手掛けた写真家。チェス、アリゲーターなどでアート・ディレクターも務め、ハウリン・ウルフ『The London Sessions』、ハウンド・ドッグ・テイラー『Genuine House Rockin’ Music』なども彼のデザインによる。2014年没。

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