「人種統合の時代に『普通の』黒人にとって身近にあって強力で意味のある音楽だったという点から見ると、ファンクはブルース直系の産物だと言える」(『ファンク 人物、歴史そしてワンネス』リッキー・ヴィンセント著/宇井千史 訳)
ブルースのダンス・ミュージックとしての役割は大きい。日々の労働から離れた土曜日の夜、徹底的に楽しむには身体を動かし、精神を解放させることだ。反復されるビートは陶酔を生み出す。南部のジューク・ジョイント(安酒場)では一曲を延々と演奏し続けていたという話も残る。ブギ・ウギ・ピアノやそれを採り入れたギター・ブギ。都市で発展したリズム&ブルース。それらはダンスするために求められた。
時代は移り、60年代。〝ファンキー大統領〟ジェイムズ・ブラウンが革新的なビートで支持を得る。1965年、ファンク最初期の一曲〈パパズ・ガット・ア・ブランニュー・バッグ〉でR&Bチャート1位を獲得したJBは言う。「2拍目と4拍目を中心にして書いてある曲とは反対に、1拍目と3拍目を中心にした」(前掲書)。ブギ・ウギのリズムを元にした「シャッフル」から、拍の重心を移動し、新たな快楽ビートを生み出した。それが「ファンク・ビート」となった。
ダンス・ミュージックとしての役割を果たすため、ブルースにもファンクが導入される。それは自然な流れだった。「ファンク・ブルース」の誕生である。最初の大きな成功は1967年にR&Bチャート5位を記録した、ローウェル・フルスンの〈トランプ〉だ。後にヒップホップのサンプリング・ソースとして引っ張りだこになる、重いビートが強力な傑作である。その後、ファンク・ビートを採り入れたブルースマンは枚挙にいとまがないが、70年代に入って個性溢れるファンク・ブルースを生み出したのが、ジョニー・ギター・ワトスンだ。『ファンク』の著者は記す。
「ブルース独特の象徴的な表現や暗喩を時代に合わせて応用してみせ、この点で昔のブルース仲間に差をつけることになる。(中略)ワトスンは新しもの好きの連中にも人気を博し、かっこよくお洒落で金のあるブルース・アーティストとして新しい理想を広く確立した」
ワトスンのアルバム『エイント・ザット・ア・ビッチ』(1976年)と『リアル・マザー・フォー・ヤ』(1977年)はともにゴールド・アルバムとなる売上を記録した。後者のタイトル曲はR&Bチャート5位のヒットとなった。
南部出身でシカゴでも活動したボビー・ラッシュも同じように時代に合わせてブルースをアップデートした。フィラデルフィア・インターナショナルから発売された『ラッシュ・アワー』(1979年)はファンク・ブルース傑作として名高い。チャート上では成績を残せなかったが、ジェイムズ・コットン・バンドの『100%コットン』(1974年)もファンク・ブルース名盤として愛聴されている。
ファンク・ビートを得て、ブルースはダンス・ミュージックの最前線に戻ってきたのである。
Bobby Rush / Rush Hour
(Philadelphia International JZ 35509) [1979]
冒頭から疾走感溢れるブギー・ファンク・ブルースで駆け抜ける