ブルース&ソウル・レコーズ

PHOTOGRAPH BLUES - カメラが語るブルースマン 【第4回】ハウンド・ドッグ・テイラー

印象に残るブルースマンの写真を数多く撮影したシカゴの写真家/デザイナー、ピーター・アムフト。
『PHOTOGRAPH BLUES ─カメラが語るブルースマン』は、彼が撮影した写真とともに、撮影時の貴重なエピソードを綴った連載で、ブルース&ソウル・レコーズNo.76〜87に掲載されました。(編集部)

アリゲーターAL4701の物語

 1971年。その頃の私は長髪で、フー・マンチュー風の髭を生やしたヒッピー写真家だった。

その日、ドア・ベルが鳴った時、私は作業机に向かいミック・ジャガーのレコードの広告をデザインしているところだった。ブラック・パキスティーノ・ゴールド・シール・ハシッシュで気持ち良くなっていた私は窓の外を見た。黒みがかった巻き毛と髭を生やした大きな鼻の男が立っている。まるでユダヤ教の学者のような風貌だ。

私はこの男を知っている。ダウンタウンに〈ジャズ・レコード・マート〉というジャズとブルースのレコードを扱う店があり、そこの臭くて暗い地下室で働いている男 ── ブルース・イグロアだ。私は彼を迎え入れた。

「こんな風なLPジャケットをつくれるかい?」

彼は脇に抱えていたLPを見せ、そう尋ねた。チャック・ベリーのチェス盤『Back Home』だ。

「このアルバムのデザインと写真を誰がやったかわからない。《デイリー・プラネット》とかいう所がやったようだけど」

私はブルースの方を見返し、水パイプをもう一度吹かして言った。

「これは俺のスタジオの名前だよ、ブルース。俺がこのジャケットをやったんだ、去年ね」

それでイグロア氏は、この素晴らしい11本の指と大きなハートを持った男、ハウンド・ドッグ・テイラーのLPを作りたいという話を私に語った。そして何とか安くデザインしてくれないかと。私はもっといい知らせを彼に伝えた。それならタダでやってやろうと。

あれから長い年月がたった現在までに、そのレコード、アリゲーターAL4701『Hound Dog Taylor & The House Rockers』は全世界で14万枚以上売れている。もし、私が一枚につき1ドル貰うことにしていたら、今ごろ私の銀行口座には14万ドル貯まっているはずだった。でも実際は、私の仕事に対して1セントの金も支払われることはなかった。その後に続いたAL4702『Big Walter With Carey Bell』やAL4703『The Son Seals Blues Band』に対しても。


ザラつく背景、ガールフレンド、そして犬

チャック・ベリーのチェス盤『Back Home』、ウィリー・ディクスンのCBS盤『I Am The Blues』、マイク・ブルームフィールドの『Living In The Fast Lane』、そしてアリゲーターから出たハウンド・ドッグ・テイラー『Genuine House Rocking Music』の最初期盤 ── それらのアルバムで私が使った茶色い背景をブルース・ファンなら気がつくと思う。

私がやったのは無地の茶色い印画紙を1ロール吊るすという至ってシンプルな方法だ。それを吊るしたあと、しっかり濡らしたモップを使って湿らせ、乾かす。最終的にあのザラザラした表面になるまでそれを繰り返すわけだ。

当時、私はとても大きなフォト・スタジオを持っていた。この写真を撮る前日、私たちはそのロールをスタジオに吊るし、脇に照明をひとつ、スクエア・フォーマット・カメラを一台セットアップした。

私のガールフレンドがスタジオに立ち寄ったのは、その翌朝早くだった。彼女は学校の制服を着ていた。短い格子縞のスカート、白いブラウス、白いニーソックス ── 現代の日本の典型的な女子高生にそっくりな格好だ。ただ、彼女はカールさせた長い赤毛をしていたが。

1971年。私は30歳で、彼女は15歳。

その朝、彼女メアリー・エミが連れてきたのが、この大きくて薄汚れた犬(ハウンド・ドッグ)だった。

「なんだい、それは??」

可愛い女学生の顔をした彼女はとてもスウィートだった。

「公園でこの犬を見つけたの。私たちで飼ってもいい?」

photos & text by PETER AMFT
[企画協力]永田鹿悟/小田憲司 [日本語訳]井村猛
(c) TWO VIRGINS / Peter Amft


シカゴの黒人街から世界へ
[文]永田鹿悟

遅咲きのブルースマンのひとりであったハウンド・ドッグ・テイラーは、1960年にシングル・デビューを果たしたが、何と言っても彼を世界的な規模で知らしめたのは、1971年のアリゲーターのLPだった。デルマーク・レコードで働いていたブルース・イグロアを夢中にさせたミュージシャンが、シカゴのサウス・サイドを拠点に活動していたハウンド・ドッグだった。シカゴのサウス・サイドのクラブで、彼が流行らせていたのが〈ハイダウェイ〉(フレディ・キングがヒットさせた)だったという説に説得力を持たせるテイラーのファンキーさと馬力だ。彼がアリゲーターから発表したデビュー盤のジャケットを撮影したのが、アムフト氏である事は良く知られているが、この時テイラーの横に座っていた犬が、実はピーターのガールフレンドが連れてきたというのを知ったのも今年の6月だった。写真に歴史ありだ。
(『ブルース&ソウル・レコーズ』2008年2月号 No.79掲載)


【編集部追記】
ハウンド・ドッグ・テイラー(本名:セオドア・ルーズヴェルト・テイラー)は1915年ミシシッピ生まれ。ギターを弾き始めたのは20歳の頃。昼間はシェアクロッパーとして働き、夜になると地元のジューク・ジョイントやハウス・パーティで演奏していた。KKKに襲われたのをきっかけに1940年代初頭にシカゴへ。工場務めの傍らウェスト・サイドのマックスウェル・ストリートやナイトクラブで腕を磨き、50年代終わりにはフルタイムのミュージシャンとなった。1960年にBea&Babyから〝My Baby Is Coming Home / Take Five”、62年にFimaから“Christine / Alley Music”のシングル2枚を出している。《アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァル》でリトル・ウォルターのバックとして渡欧、第二回アナーバー・ブルース・フェス出演、そしてこの71年アリゲーター盤で遅咲きながらブレイクを果たしたのも束の間、75年に肺ガンのために亡くなってしまう。生前リリースされたアルバムは2枚のみだが、その後も未発表録音やライヴ音源などでアルバムが出され、サイド・ギターのブリュワー・フィリップス(99年没)とドラムのテッド・ハーヴィ(2016年没)を従えたベースレス・トリオ・バンド、ハウスロッカーズの狂暴無比なブルースは今も世界中にファンを生み出している。

本文中に触れられているアムフト氏へのデザイン料の支払いについてはアリゲーター側の主張と食い違いがある。また、ハウンド・ドッグ・テイラー『Genuine House Rocking Music』のジャケット写真はダイアン・オールメンによるもので、アムフト氏のいう“最初期盤”の存在は確認できなかった。アリゲーター87年コンピ盤『Genuine Houserockin' Music』のジャケット裏に掲載された各アーティストの写真のうちハウンド・ドッグ・テイラーがアムフト氏によるものであり、氏がこれと混同したか、あるいは「同コンピのVol.1のハウンド・ドッグ・テイラーの部分」という文脈を編集部が誤訳した可能性がある。


HOUND DOG TAYLOR & THE HOUSEROCKERS
Hound Dog Taylor And The House Rockers
(Alligator AL4701)1971

HOUND DOG TAYLOR AND THE HOUSEROCKERS
Natural Boogie
(Alligator AL4704)1974

HOUND DOG TAYLOR & THE HOUSEROCKERS
Beware Of The Dog!
(Alligator AL4707)1976

HOUND DOG TAYLOR AND THE HOUSEROCKERS
Genuine Houserocking Music
(Alligator AL4727)1982


PETER AMFT(ピーター・アムフト)
1941年シカゴ生まれ。60年代からブルース・アルバムのジャケット写真などを数多く手掛けた写真家。チェス、アリゲーターなどでアート・ディレクターも務め、ハウリン・ウルフ『The London Sessions』、ハウンド・ドッグ・テイラー『Genuine House Rockin’ Music』なども彼のデザインによる。2014年没。